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02

 おのれを証明するものはただの紙切れ一枚だった。
 おそらく若い女性の字で「この子の名前はトオルです」とだけ書かれたそれはもう随分と古いもの。これはトオルが施設前に置き去りにされたとき、生後間もない彼とともに残されていた唯一の肉親にまつわる一品なのである。つまり、トオルと同じ年の数だけこの紙切れは生きている。
 望み薄であることを知りながらも、几帳面で丁寧だった施設の職員はこの一枚をずっと残していてくれた。いつか会えるかもしれない、迎えに来てくれるかもしれない母の糸口はけれども回収されることなく、トオルの手を取ったのは実母でなくて初対面の男ひとり。ツルバミ家の当主――今のトオルの義父である。たとえおのれがツルバミという名前をもらった今となっても、この家に迎えられた今でも、これは変わらずトオルの宝物だった。
 くしゃくしゃになった紙切れを畳み、ロケットのなかへ仕舞いこむ。少ないおこづかいを貯めて買ったこのロケットを、唯一の親の手がかりを、トオルはずっと、肌身離さず持っていた。
 ルクシオが――それこそコリンクの頃から――紙切れの匂いを嗅いで探し出そうとしてくれたことは何度もあった。けれどもう10年以上も前の残滓はひどく微かなものであり、ガーディやイワンコほど嗅覚が強くないルクシオがたどり着くのは、いつもトオルかこの家だった。首を傾げるルクシオを撫でて、トオルは無気力に微笑む。
 家政婦に少し挨拶をして家を出る。ルクシオを連れ歩きながらディラリアの街を歩いた。ここは浅緑の草花が多く咲き乱れ、特にホーリィガーデンを望む岸にはそこからこぼれたような色とりどりの花がそれぞれに淡く笑んでいる。複雑な鳥かごのような意匠をした囲いの向こう、庭園のなかでは瞬きの間に咲く花や色が変わるらしいと、いつかどこかのタイプマスターが興奮気味に言っていた。不思議な場所だ。赤、緑、青、黄色、様々な花はともすれば眩しくなりそうなのにカラフルな反面しっかりと調和はとれている。香りに誘われたアブリーが花びらと共に踊り、ミツハニーはビークインのために蜜を集めてまた戻る。ポケモンたちの営みをぼうっと眺めていると鬱屈した気持ちが晴れるようで、爽やかな風も同じくトオルのなかにあるモヤを吹き飛ばしてくれる気がした。きりばらいか、かぜおこしか、ふきとばしか、自然のもたらすそれがトオルの心に安寧を持ってくる。見上げた空は高く青く広がっていた。けれど手を伸ばしても掴めるのは空気だけだ。トオルの左手は、まだ誰にだって届かない。
「……あれ、トオルくん?」
 消え入りそうな気持ちで青い空を眺めていると、背後から出し抜けな声がかかる。くるり振り向けばそこに居たのは少女だった。振り返った拍子、ルクシオと同じ色をしたローサイドテールが揺れる。
「わたしだよ、ハルミ」
 ふにゃりとタレ目をうんと緩ませて笑う彼女は、トオルを見知った様子だった。淡いピンク色の髪を風に遊ばせながら、傍らには大きなショルダーバッグを提げている。ラベンダー色のスカートにはモンスターボールがふたつ、カタカタと揺れるそれのなかには、タマタマとニョロモが納められているのが確認できた。
 こくん、と首を傾げて彼女をしげしげと見つめたあと、トオルはあっと声を上げる。その声量に耳をふさぐ、ルクシオと少女の手つきはなんとなく慣れたものだった。
「あー! ああーー!! ハルちゃんか!」
「そう! あはは、こんなところで会えるなんて思わなかったなあ」
 ハルミと名乗る彼女は、トオルと同じ施設で世話になっていた子供だった。歳はトオルのひとつ下、13歳。トオルがツルバミ家に引き取られてから会うこともなくなっていたのだが、施設時代より身なりが綺麗になっていることを思うと、彼女もどこかの家に迎え入れられたのだろうか。
「トオルくん、園を出てからちっとも会いに来てくれなかったもんね」
「ごめんて。てか、ハルちゃんこんなとこで何してんの? てかてか、めちゃくちゃ可愛くなってて全然わかんなかったんだけど! てかてかてか、そんなにデッカいカバン持ってるってことはもしかして旅の途中とか!!? てかてかてかてか――」
「もう! トオルくんうるさい!」
 ぷす、と頬を突かれてトオルは思わず言葉を切る。ルクシオはハルミに頷いているようだった。すぐそこにあった手頃な岩に2人して腰を下ろし、ポケモンをボールから放して久々の再会に話し込む。見知ったタマタマと初対面のニョロモに囲まれながら、ルクシオは嬉しそうに笑っていた。
「元気にしてる? ……なんて、ちょっと話したらわかっちゃったけど。新しいお家でもうまくいってるのかな」
「はは……まあ、ぼちぼちかな。同い年の生意気な弟が居てさあ、そいつと毎日口喧嘩ばっかだよ」
「そうなの? ……え、ていうか同い年なのに弟ってなんか変だね。面白いけど」
「ハルちゃんそうやってすーぐ面白いとか言うー!」
 頬を膨らませて拗ねるトオルに、ハルミはけらけらと声をあげて笑った。第一印象からおとなしそうに思われる彼女だが、実のところ施設では男よりも男らしいと評判だったほど肝の据わった性格だ。何事も楽しむし、何でも面白いし、いいと思ったものはきっちり吸収してゆく。トオルと一緒に幼い子たちを世話していたのは他でもないハルミだった。
 彼女ならばきっと、ついていく人も選べたのだろうと思う。選ぶというか、選ばれるだけでないというか、きちんと目で見て判断して、心を聞いて、何よりノーと言えるのだから。彼女は本当に芯が強い。トオルはいつも感心していた。
「さっきの続きだけどさ。当たりだよ。わたし、旅の途中なんだ。この前旅立ったばかりなんだけど、貰われた家がバトル一家でさ、バトルが強くなるまで帰ってくるなーって言われてんの」
 けらけらと朗らかに笑うハルミは、言葉こそ不平にも思えるがひどく満ち足りた様子だった。施設では一度も見たことがない顔だ。毎日が――旅が楽しくて仕方ないとでもいいたげで、トオルには彼女が眩しく見える。施設時代はまだまだ小さくて、しっかり者だけど少し泣き虫で、トオルがいつも笑かしていた。実父に暴力を受けた彼女が施設に預けられたのは確か彼女が6歳のときで、3年間しか一緒に居られなかったけれど、それでも毎日を共に過ごしていたのだから、彼女の人となりは多少ながらわかっていたつもりだ。ずっと後ろをついてきていた彼女が自分の道を手に入れて、前を向きながら輝かしく生きている。もちろん彼女には彼女なりの努力や困難があったのだろうし、その末に今があるというのは言葉にせずともわかることだ。
 それでもトオルは思わずにいられない。――ああ、羨ましいな、と。
「でも、こうやってトオルくんに会えてよかった」
「へ――」
「やっぱりさ、旅に出るのってちょっと不安でね! 大丈夫かな〜出来るかな〜ってうつむきがちになっちゃうじゃん、でもさ、トオルくんの顔見るとなんか元気出たんだよね。施設にいた頃、トオルくんいっつもみんなのこと励ましてくれてたもん」
 いつの間にやら混ざっていた野生のハネッコに、ルクシオたちがおちょくられている。飄々とした気性のハネッコは、ふわんふわんと浮き沈みをしながら、届かない3匹をからかって遊んでいるようだ。
 ハルミは小さく笑っていた。過去を懐かしんでいるのだろうか、穏やかな水平線に目を向けて、翡翠の色の目を伏せる。
「トオルくんが元気づけてくれるの、本当に嬉しかったんだよ」
 ――わたしの太陽みたいだった。
 ほんのりと頬を染めるハルミは、それから程なくして去っていった。

20170915
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