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01

 ――かわいそうなトオルくん。
 頭のなかで声がする。男の嘲る声にも聞こえるし、ささやく女のそれにも思える。脳内で反響してはどんどんと大きくなる得体の知れないそれを振り払うように、トオルは暗い自室のなか、ルクシオの体を強く抱きしめた。
 くぅ、とルクシオがトオルの頬を舐めながら鳴く。気遣うようなそれはけれどもトオルの何を溶かすことなく、ただのぬるい感触として、トオルの触覚に触れた。トオルは未だに震えたまま、どこともつかないどこかへずっと視線を彷徨わせている。
 セピア調のカーペットも、群青色のベッドシーツも、薄型テレビもクローゼットもタンスも鏡も机も椅子も、この広い部屋まるまる全部がトオルのために買い与えられたものだった。この家の――ツルバミ家の家主が、今のトオルの義両親が、トオルを家に迎え入れる際、トオルのためにしつらえたもの。誰のためでもない、誰のものでもない、この空間だけはトオルのものしかなかった。全部に名前を書いても構わない、そう言っていたのは果たして義父母のどちらだったか。
 けれどもトオルは怖いのだ。唐突に、衝動的に、このすべてを壊したくなる。壊して、破いて、切り裂いて、捨てて、踏んで、燃やして、何もかもを滅茶苦茶にしてここから逃げ出したくなる。逃げ出す場所なんてないのに。自分に居場所なんかないのに。
 背後にある窓の向こう側、闇の奥からヘルガーの遠吠えがする。彼の鳴き声は夜を知らせた。ゆっくりと、心身が沈んでいくような深い闇が、この壁ひとつ隔てた向こうにきっと広がっているのだと思う。暗闇はトオルの心を惹いた。あのなかに溶け込めば今の自分は消えられる、何にもわからなくなって溶けられる、そうしたら誰の目につくことも、誰に嘲られることもない。誰に負い目を感じることも、誰を恐れることもない。それは、きっと、ひどく甘美なしあわせだ。
 トオルの力が緩んだのに気づき、ルクシオはするりと体を滑らせて、彼の腕からすり抜ける。ゆるゆる立ち上がった彼を見上げ、不安そうにまた鳴いた。トオルはルクシオの頭を撫でる。月明かりの逆光に隠されてその表情は窺えない。
 ぎし、とトオルが窓に足をかける。山吹色のカーテンが揺れた。この部屋は2階にある。1階の天井は高めに作られているし、この家は家系が家系ゆえに豪勢な造りをしているため、高さだけなら民家の3階程度に相当するだろうか。この高さから飛び降りればひとたまりもないのは明白で、怪我で済めばまだしも命の危険だってあるのに――それでもトオルは薄らに笑んだまま、闇のなかへ飛び込もうとする。引き寄せんとするそれはいったい何の引力なのだろう。
 キャン! ルクシオが吠える。恐れなのか心配なのか少し声色の違うそれに、トオルは視線を投げかけて歪に笑んだ。
 ――ごめんな。トオルのくちびるが謝罪のかたちに動く。それは果たして誰に向けたものか。そばにいてくれるルクシオか、4年間育ててくれた義両親へのものか、それとも生意気な義弟に対するものなのか――このままトオルが命を落とせば、その答えもまた闇の中だ。
「――何やってんだ、おまえ」
 今にも飛び込まんとする刹那、出し抜けに明かりが灯された。ぱ、と暗闇を取り去る光。頭上のライトが明るくきらめく。
 傾ぎかけた体を戻して、トオルは腰を捻りながら唐突な声の主を見る。バチュルの体毛と同じ色に染められた黄髪をたたえた彼は、電気のスイッチに片手を添えながら部屋の扉に身を預けていた。眉間に深くしわを寄せた表情は怪訝の色をしていて、トオルの様子を見て嘆息する。またか、と小さくつぶやいた声はトオルには届かない。聞いたのは肩に乗るバチュルのみだ。
「なにって――あれ、なん、何だっけ?」
「覚えてないのか」
「っと……なんか、すんごいしんどくなってヘコんでたらルクシオが慰めに来てくれて、抱きしめてたら落ちついて、それで――」
 先ほどとは打って変わって快活に言葉をつむぐトオルに、黄髪の彼は手を振って遮る。もういい、わかった、そう言いながらルクシオに目配せをして少し口元を緩めた。彼の笑みにルクシオは不安を少し取り去って安堵の表情を浮かべる。そのままトオルの足に身を擦り寄せる、ルクシオはこれが好きだった。
 甘えたように身をこすりつけるルクシオに目いっぱいの笑顔を向けながら、トオルははたと気づいたようにもう1人に疑問を投げかけた。彼は未だ扉にもたれかかっており、不機嫌そうに組んだ腕には数匹のバチュルが乗っかっている。
「つーかタクヤ、おまえこそ勝手にオレの部屋入ってくんなっつーの」
「ちゃんと閉めてないおまえが悪い」
「ハ!? うそ! マジかよなんで……くっそー、弟のくせに生意気な」
「弟はおまえのほうだろうが」
 踵を返す彼――タクヤにつられて、トオルも続いて部屋を出る。明るい廊下を2人で渡り、下に降りればかんばしい食卓の香りがした。今日の献立はシチューだったとメイドの1人に聞いている。心を躍らせながら食堂への扉を開き、腹をすかせてそこへ飛び込んだ。
 タクヤと呼ばれた彼は、トオルの兄で弟でもある。歳はトオルと同じ14歳で、トオルがこの家に迎え入れられるまで、このツルバミ家の1人息子だった少年だ。
 物言いはぶっきらぼうながら、真っ当に愛を受けて育ったタクヤはひどく真っ直ぐな性分だった。太陽のような激しさはないながらも、けれど月のように反射光で輝くでもない。目を背ける眩しさはないが見つめ続けると目が眩む、そんな印象を抱かせる少年。優しさはねだるでなく与えるものだと知っている、心身ともに満ち足りた、いわば恵まれた人間なのだ。
 ――そして。
 愛されて。
 真っ直ぐに。
 ひたむきに生きる彼のことが。
 トオルにとっては何よりも、誰よりもひどく恐ろしかった。

20170914
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