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どうやら今夜も眠れない

 泥のように眠りたい。
 真新しいシーツに頬を埋めて目を閉じる。知らない匂いは気づけば自分のそれと混ざって、鼻に潜り込む違和感たちはすぐに感じなくなった。ごろりと寝返りを打つ。殺風景な部屋から無機質な壁に視界を交換した。実家で見ていたものとは違う手触りを指先でなぞるが、ちくちくとした感触は少しも眠気を刺激してはくれない。
 またもぞもぞと身をよじり、今度は枕元のボールを見る。暗さに慣れた目はしっかりとその輪郭を映し、眠っているらしいメタグロスを赤色越しに視認できた。すうすうと寝息を立てているのか、閉じた瞳とゆっくり上下する体を見るに、どうやらよく眠れているようだ。喜ばしい。喜ばしいのだけれども。
「その眠気を分けてほしいもんじゃ……」
 どうやら今夜も眠れないようだ。湿っぽいため息をひとつ吐いて、次は天井に視線を移す。四角い蛍光灯のカバーを見つめていると、明かりはついていないはずなのに何故だか目がチカチカした。
 頻繁に見る夢がある。正確には、「夢を見ている自覚がある」。それも悪夢のたぐいのものだ。
 けれども目覚めたときには何ひとつとして覚えておらず、ただひどい寝汗と動機、レッスンよりも身を蝕む疲労感、時おり残る首の跡、数多の痕跡だけがノブチカのことを苦しめていた。胸の奥にあるつっかかり。シコリのような違和感は日に日に大きく肥大してゆき、ついにはノブチカから眠気を奪っていってしまった。ひとりの夜じゃあ眠れなくなった現在、ノブチカの貴重な睡眠時間はささやかな昼寝か移動中のわずかな時間に限られる。人の話し声や風のそよぐ音を聞いていると、不思議とぐっすり眠れるものなのだ。昼間に寝るから夜は眠れない、そんな悪循環から目を逸らしての今日、案の定で布団のなかで時間を持て余している。
 時刻は深夜の3時になる。外は暗い。身を起こしても何の物音もなく、外にも人の気配はなく、かすかに夜行性ポケモンのなきごえが遠くから響くくらいだろうか。家主であるブナもおそらく眠っているだろう。このところ彼女も激務に喘いでいたから、寝ているのならギリギリまで寝かせておいてあげたい。
 こんな夜は苦手だった。故郷であるコウヨウならば、例えば一日じゅう舎弟がそこらを走りまわっていたし、抗争という名のポケモンバトルが始終繰り広げられていたし、古めかしいくせに騒がしい場所であったので、こんなにわびしい思いはせずに済んだのである。もっとも、よく考えればあの頃は今ほど苦しんでもいなかったのだけれど。
 どうしてこんなに苦しむのか。羽毛がたっぷり詰まった掛け布団を握りしめ、ノブチカは頭を垂れる。うつむきすぎて吐き気がしたが、頭を起こす気力はない。体がひどくだるかった。だるい、けれども、眠れない。少しずつすり減るような精神は確かに削れて落ちてゆき、風に吹かれて飛んでいく。ノブチカの残滓はきっと誰にも拾われないし、誰にも気づかれることはない。ああ、なるほど、誰も知らないところで捨て置かれるものなのだとしたならば、もしかするとあのカケラはノブチカではなく――
 脳裏によぎる名前があった。死んでしまったかつての亡霊。それを思い返した途端に脳がしびれて思考が切れた。思い出してはいけないような、急激な息のつまりを感じて喉を押さえて吐息を漏らす。ヒュ、という漏れ出たようなかぼそいそれが、事態と理由を物語っている。恐ろしかった。カバタ地方は年中が春の気候に包まれていて、多少の上下はあれども強い寒さを感じることはない。それなのにノブチカは急な寒気に体を震わせ、ガチガチと歯の音を鳴らしながら小さな体を抱きしめている。恐ろしかった。恐ろしかった。恐怖心に冷たく抱かれているような感覚に、ノブチカはひとり犯されている。
「ワシ、きっと、あいつに――」
 未練も後悔もないはずなのに。全部諦めたはずなのに。どうしてかな、彼女は今も生きている気がする。今も後ろにいる気がする。抑えつけては殺された女。アオイ組8代目の長女。その名の通り宝石のように輝く才能を持っていた、まだ磨かれぬままの原石。ポケモンにも人にも好かれ、聡明で、活発で、2人の妹を愛していて、何よりも前向きに先を見つめていたはずの、優しい両親のもとに生まれた初めての宝物で、そう、その子は今、
「あいつはどこにもおらん、もう、おらんはずやのに」
 気配を感じてしまったのは――恋の自覚が生まれたときだ。
 苦しいくらいに顔を出した。あの人に出会って変わってしまった。胸の奥が沸き立って、殺したはずの女が目を開き、土くれのなかから腐り落ちた手を覗かせてきて、そうしてノブチカの足を掴んだ。忘れるな、諦めろ、みっともない、惨めだ、そんなことを呪詛のように吐き続ける。吐き続けては脳を犯してノブチカの身を蝕んだ。そうだ、だからだ、だからずっと首に、ああ、これは指のくい込んだ痕か。何度も何度もおのれに殺されている、きっとそれは夢だけでなく現実のものとなるのだろうな、女の自分に殺されるのだ、男として生かされたノブチカが。
 ――長く深くため息を吐いた。気づいたところでもう遅い。何にも、そんなの、変わらない。現実も、夢のなかも、悪夢の内情も、眠れない夜も、どうにもならない気持ちだって、もうどうすることも出来ないのだ。
「どうやら今夜も眠れんようじゃ」
 だってそれを、それこそを自分自身が望んだのだから。

20171101
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