開幕のベルを鳴らして | ナノ





 ピピッ、と鳴り響く電子音。すっと右手が伸びればその右手にそっと何かが乗せられる。それを握り、上に掲げて一言。

「38度5分ですか、まだ高いですね」

「……。」

 燐は何も言わずに黙ってズルズルと鼻を啜った。ちらりと横目で隣を確認すれば、温度計を掲げた侭の道化師、メフィストが居る。そして燐自身が何処にいるかと言えば隣の人物の寝室、メフィストが寝るであろうベッドの上で風邪に苦しめられていた。大人が三人位寝れるのではないかというそのキングサイズのベッド、色彩は目に痛いものだがベッド自体の性能には優れていてとても柔らかい。
燐に元気があるなら飛び跳ねてその弾力性を確かめたい位だ。しかし、熱で重い体はそれを許してくれる筈もなく大人しく横たわるだけ。

「全く貴方もタイミングが悪いですね、何かは風邪を引かないと聞きましたが嘘だと証明されてしまいました。」

「…馬鹿じゃねー…」

「おや、知っていましたか。まあ、私に看病して貰えるなんて奥村先生に感謝して下さいね☆」

「うるせー…」

 鼻は詰まり、腫れた喉は枯れて掠れきった声しかでない。けれど、メフィストの言う通りに全てはタイミングが悪い、本当ならば燐の風邪を引いた際に雪男が看病してくれる筈だったが緊急任務で看病も出来なくなった。燐は寝ていれば治るのでほっとけと言ったのだが、聞く耳を持たず雪男が代わりに看病に寄越したのがこのメフィストだ。
 燐は忘れていたが、メフィストは二人の後見人だ。相応しい代理といえばそうなのかもしれないが、燐としてはメフィストだけには看病されたくなかった。

「…やはり高いですね、こちらもとても熱い」

「…っ!」

 すっと伸びた掌が汗が滲む額に添えられる。心臓がドクンと跳ねて、血流が早くなった気がした。手袋越しとはいえ想像より冷たい指先、それが心地良いのにそちらを思う余裕などない。頬が熱くなるが既に熱で赤く染まっているので悟られる事はないだろう、今日初めて風邪に感謝したいと燐は思った。
 実は、燐はメフィストが好きなのだ。しかも初恋だったりもする。気付いた当初は男だとかよりにもよって、等と悩んだのだが今は仕方ないと開き直っていた。けれど、燐はメフィストに想いを伝える気は一切ない。伝えたらきっとこの道化師は嘲笑いそれを利用して、燐はメフィストにとって都合のいい玩具となるだろうから。それはとても悲しく、耐えきれない。

「しっかりと体を温めて汗をかかなくてなりませんね。奥村くん、欲しいものはありますか?」

「…ねー…よ、ごほ、っ、ごほ」

 上布団も高いのだろう、燐が何時も使うものとはまるで質が違っていた。その上布団をメフィストが燐の口許を隠す程に引き上げ、掛け直す。そうして看病される度に燐は切実に願う、傍に居るのをやめて欲しい、と。ただでさえ熱で弱る精神とまともな思考が出来ない今なのだ、メフィストに何を言ってしまうかわからない。
 不意にふわりと上布団から香る匂い。メフィストの香りだ、香水だろうか、何処か甘いその香り。きゅと胸の奥が締め付けられて、シーツを強く掴む。ああメフィストが凄く好きだ、とこの状況で自覚する自分自身が酷く憎い。

「……くん、…奥村くん、聞いていましたか?」

「わ、悪い…、何だ…」

「ですから、今の内に身体をタオルで拭って差し上げますと言ったのですが」

「あー…んじゃ、頼むわ」

 熱でやられた頭は特に理解もせずにこくりと首を縦に振った。ただ誤魔化したくて、というのもあったのだろう。けれど暫くしてからふと気付く、身体を拭うという言葉に。

「それでは少し身体を起こしますよ、では失礼して」

「あ……っ」

 やっぱりやめろ、と咄嗟の制止の声も出せずに終わる、ズキッと喉が痛んだせいだ。その間にメフィストがベッドに乗り上げて来たせいで小さくベッドが軋む音、自然な流れで燐の肩にその腕が回った。びくりと燐の肩が震えてしまう、心臓もドクドクと煩い、緊張からか指先一つ動かせる気がしない。
 肩を抱き上げ、メフィストに上体を起こされるがその際に顔が近いのだ。熱上げて殺す気かと、逆にメフィストが憎らしくなる。とにかく、と半分混乱した頭で弾き出した解決策は瞳を閉じて無心になる事だけだった。そうしてぎゅと瞼を閉じた。

「……、」

「……?」

「……、」

「メフィ、スト…?」

 暫く瞳を閉じていたが、瞳を閉じた時からメフィストの動きが一行に進まない。ゆっくりと瞼を持ち上げメフィストを見上げると何故か無表情だった。訝しげに名を呼ぶと、メフィストはパチパチと瞬きを繰り返した後にふっと口許を緩めて、唇は綺麗な弧を描いた。それは燐が見る何時もの胡散臭い笑み、そして唇をゆっくり開いた。

「申し訳ありません、奥村くん。先に替えの着替えを用意するべきでした。今から取って来ますので少々お待ち頂けますか」



♂♀



 バタン、と扉を後ろ手で閉めて細い呼気を吐き出す。そのまま扉に背を預けて天井を仰ぎ見る、けれどそれだけでは落ち着かずメフィストは自身の目許をそっと掌で覆う。

「私とした事が、」

 危なかった、そう言葉を繋げると覆った手指の隙間から覗かせる照明の灯りを脳へ焼き付ける。そうして先刻の光景を少しでも消してしまいたかった。
蒸気して赤い頬、荒い息、蒼い瞳は熱のせいか潤み心細そうに揺れる。汗をかいて黒髪が額に張り付き、その汗が喉元を滑り落ちていく。その姿に欲情した、と言って誰に責められるだろうか。メフィストは燐に恋をしているのだから、しかも言うなら初恋だ。

「これだけ生きて初恋、か」

 くっ、と喉を低く震わせ存在してから数百年以上の月日を重ねて、やっと得た恋、そんな自分を嘲笑う。それも一目惚れだったと燐に言えばどういう顔をされるだろうか、眉を顰めて偽ろうとしない嫌悪の表情が容易くメフィストには想像出来た。この恋を告げる事はないかもしれない、メフィストには珍しく諦めていた。何故ならそれを燐が許容出来るとは思えない、燐は同年代のしえみに気があるのだから。
簡単に口にして拒否されたら場合、大人しく引き下がれる自信がメフィストには無かった。恋した悪魔の執着、それがどれ程の脅威になるか、あの幼い末の弟は理解しないだろう。だから告げない、このまま永遠に殺していく。

「だというのに、」

 熱に魘されたあの姿はメフィストの理性をガリガリと削っていく。警戒からか怯えているのか肩を震わす仕草は嗜虐心を煽り、欲を押し込めて身体に手を伸ばせば先程とは正反対で無防備に瞳を閉じる。何度指先が迷ったかわからない、理性と本能の戦いで辛勝した理性の勢いで部屋から逃げ去れたが次はどうなるかメフィストさえわからなかった。これを悪手というのだろう、自室に連れ込んだ事が結果、更にメフィストを苦しめている。
 目許から掌を外して、深呼吸を繰り返す。自分の下唇を鋭い犬歯を噛み刺せば痛みで、頭に溜まる熱がゆっくりと冷めていく。口の中を鉄錆びた味が広がり、ふうと溜め息を吐き出した。

 同時刻扉越し、向こう側の燐も同じように溜め息を吐き出していた。これからの自分が果たして血迷わずにすむかどうか、これは一種の戦いだと燐は自分を励ます。
けれど、今いないのならばいいだろうか。そして、ぽろりと溢した燐の本音は時を同じくして扉向こうのメフィストも同じ思考、同じ本音と重なる。

「好きだ、メフィスト」
「好きですよ、燐」

 そう溢した両方の口調は重々しいものだったが両方とも口許に浮かぶのは知ってか知らずか笑みだった。一人は扉に凭れながら一人はベッドに埋もれながら、勝利する事の価値さえわからない戦いの幕は今この時に上がった。






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