宵闇知らずの恋の話 | ナノ




 奥村燐には付き合っている女性がいるらしい、そんな噂がメフィストの耳に届いた。それは私室でティータイムを楽しんでいる時であり、丁度色彩が鮮やかなティーカップに注がれた紅茶で喉を潤していた。何を馬鹿な、とメフィストは鼻先で嘲笑う。何故か、と問われれば男女の色恋など、人類にとって解き明かされていない学問の一つを燐が理解出来る筈もないと断言して答えられるからだ。

 それに実は、燐という存在は今メフィストが心から想う相手でもある、世にいうとメフィストの片想いではあるが簡単に他へ目移りさせるようなヘマなどはしない。更には燐自身に特定の恋心を抱く相手がいないのは一目瞭然、今燐の頭は花より団子だ。その団子で釣っているメフィストが言うのだからこれにも間違いはない。なので、そんな噂を聞いても真意を確かめる事はしなかった。
 その日から一週間、燐がメフィストに会いに来る事がなくなるまでは。


「…可笑しい」

 何が何でも可笑しい、と特注の色で染められた携帯の液晶画面、それを不機嫌そうに睨み付けて眉を顰めた。毎日、とはいかなくとも暇があればメフィストに燐は顔を見せに来ていたというのに。何かに怒っているのかとメールをしてみるが返事は至って普通だ。

『奥村くん、今日は塾はお休みですよ。暇になるのではありませんか?ヾ(・ε・。)』

『マジかよ!危なかったー、いや、今日は少しやる事があるから。』

と言って然り気無く断られる。更に次は団子で釣ろうとしても、

『今日は邸に来ればスキヤキがありますよ☆O(≧▽≦)O』

『悪い、忙しいからまた今度』

などと燐にしてあり得ない返答で完膚なきまでにばっさりと断られる。
 こうなると付き合っている訳ではないので、メフィストから邸に来ない事を責めるのは無理な話だった。ここまでくればメフィストももしや、と思わないでもない。これは早急に調べなくては、と白色のマントを翻した。


♂♀


「何や、この犬」

 塾の教室を扉を開き廊下へ出た勝呂達、それを出迎えるように犬。それは首にはピンク色に白の水玉模様のスカーフ、触り心地の良さそうな毛並みは飼い犬特有の清潔感がある。けれど、ただの犬ならばこんな所に迷う可能性は限りなく少ない。吠える事すらない犬を訝しげに眉間に皺を刻んで睨み付けてみるが、その犬は警戒心の欠片すら見えずにぼーとこちらを見ていた。

「坊、この犬って奥村くんの犬やないですか?」

「ああっ、ほんまや!最初の授業におったわ。いやあ、子猫さんもよう覚えてはったなあ」

 そういえば、と勝呂も頷く。最初の一日だけだが燐が膝に乗せていた犬とよく似ている、そう納得すれば勝呂の肩の力は抜けていく。その犬、メフィストはそれ確認してからテテッと勝呂達の足元へと駆け寄ればここぞとばかりに尻尾を揺らして、その小さな瞳で見上げた。まるで自分の可愛さを理解しているようなアピールなのだが、残念ながら男には差ほど効力はない。

「もしかして、この犬は奥村を待っとるんか?」

「そうちゃいます?でも残念やなあ、奥村くんならもうここにはおらんよ」

 志摩はその場で膝を折ると屈んでその瞳を覗き込み話し掛ける、そうすると志摩の言葉にメフィストの短めの尻尾がピンと張る、ふさふさの耳もピクピクと揺れて必死に音を拾おうとしているのがわかった。それが飼い主とペットの絆かと志摩が癒されている中、メフィストの内心は驚きに満ちていた。

「そういやあいつ、最近は塾が終わるとやけに早う帰っとらんか?」

「そう言われたらそうですね、…もしかしたら、可愛らしい恋人とか?!奥村くん、羨ましいわー」

「阿呆言うなや、あいつにおる訳あるかそんなもん」

 再度、大きくピクリと跳ねた耳だが尻尾はだらりと垂れておりもはや動く気配もない。ただ瞳は一点を見据え、瞬きすらなくて身動き一つしなくなった。それに勝呂と志摩は会話に夢中で気付く事はなかったが、子猫丸はそれに気付き不思議そうに首を傾げた。しかし次の瞬間、メフィストは勢いよく器用に四足を使いその場から駆け出し、廊下の先へと消えていった。

「…あれ、犬はどこいったんや?」

「えっと、今さっき凄い勢いで走っていかはりましたけど…」


♂♀



 勝呂達から離れた後、校内を燐の影を求めてメフィストは犬の姿で駆け回った。駆け回った、と言っても所詮は犬、歩幅は短く思う以上に時間は過ぎ、青空は既に朱の絵の具を溢したような色だ。
肉体の疲労はなくとも精神には多少の疲労をメフィストは感じていた。

(…私がここまで駆け回るなんて、何百年振りだろうな)

 溜め息を溢す犬、そんな奇妙な姿を辺りに晒すが幸いな事に人影はない。それはここが旧寮に続く大橋の上だからだ、こんなお化け屋敷のような外装の寮に用がある人物など限られているだろう。当の本人であるメフィストもその限られている人物を。
 ちらりと視線を手、今は短い前足に向ける。そこは微かに黒く汚れており、赤黒い汚れも混じっている。これは駆け回った際に出来た傷から滲んだ血の汚れ、当たり前に人外な器は治癒力が高く今では傷一つありはしない。けれど紳士としては失格だ、こんな清潔感に欠けた姿を大衆に晒すなど。

(だが、)

だが、帰る気はしない。
 メフィストが無様に地を這って、必死になってただ一人を探している。思えば直接自分が探さなくてもいい、楽な手段ならいくらでもある。けれど、落ち着いて待つなんて出来る気はしない。そこまでに恋い焦がれているのだ、あの末の弟に。

「あれ、メフィスト…だよな。お前。そんなに汚れてるから何処の犬かと思ったぜ」

 はっ、と顔を上げると朱色の陽射しを黒髪に受け、蒼い瞳。影になって確かめ辛いその表情は何処か驚きに満ちていた。右手にはスーパーの袋、ああ成る程スーパーに行っていたのかと何処か頭の隅で一人納得した。そしてそんな当たり前の事を予期出来なかったメフィスト自身に失笑する事しか出来なかった。

「少し、ね。…奥村くんこそ、最近はどうされたのですが?噂では塾が終われば足早に帰っていくというではありませんか」

「あー…それな、えーと」

 テテッと燐の足元に歩み寄れば、ぴくぴくと耳を揺らす。燐の頬が仄かに赤みを差していくのは夕陽の色で気のせいだろうか、いや燐の尖らせた唇は羞恥を感じている証だ。まさか、と思考が巡る前に1、2、3でポンッと弾んだ音と共に何時もの道化師の衣装に包まれたメフィストが現れる。白の衣服に犬の時の汚れはなく、その表情は無表情に近い。

「知っていますよ、噂で…私も聞いていますので」

「え、マジで!?そ、そっか…だったら」

 はにかむ燐の笑顔がメフィストには愛しくその倍に腹立たしい、それを他の人間に向けているのならいっそここで何かも壊してやろうかと黒く歪んだ考えさえ頭を巡る。夕陽が段々と黒に支配されていくようにメフィストの思考も、暗く黒く歪んでいく。すっ、とメフィストの右手が持ち上がり燐に伸びる、その前に、

「んじゃ、よろしく」

「はい?」

 その右手に何故かスーパーの袋が掛けられた。

「…あの、奥村くん?」

「折角秘密にしようと思ったんだけど、バレちまったなら仕方ねーよな。先にそれだけ持って行ってくれ」

 現状が上手く把握出来ないメフィストは珍しく狼狽え、瞳が泳いで右手を伸ばした腕はピシリと固まる。受け取ったスーパーの袋だけが風に撫でられかさりと鳴って、揺れていた。燐は特に気にした様子もなく腕を回して重みから解放されたそれを楽しんでいる。

「申し訳ありませんが、一体どういう意味なんでしょうか?」

「だーから、俺がお前の為にチーズ豚モチもんじゃを作る練習してたの、バレてたんだろ?」

「は?」

「一応はあん時食った味には近いとは思うけどよ、まあ違ってもそこん所は諦めろよ」

 暫く沈黙が続く、メフィストは言葉を全く発する事のなくなった。そんなメフィストを燐は訝しげにを双眸を細める。燐の眼前にあるのはまるで石像だ、そういえば何時か壊した像はこんな感じだっただろうか。掌をその石像の前でブンブンと振ってやるも反応一つしない。
 突如石像、もといメフィストの肩が震えて始めて燐は後方に後ずさる。するとメフィストは腹を押さえて唇を開いた。

「くはははっ、これはおかしい、何よりも私がおかしい!ウハハハッ、久し振りに自分に笑えました、ククッ」

「げっ。お前、大丈夫…うわ!?」

 数歩下がっていたというのに易々と燐の手首を掴みぐっと引き寄せる、燐がよたよたと此方へ近付くと素早く手首から腰へ。そして有無を言わさず燐を抱き寄せた、それは強く強く。黒髪に顔を寄せて唇でそっと髪を撫でる、もし右手が自由なら頬に手を添え唇を奪っていたかもしれない。けれど、メフィストは右手にかかる重みさえ愛しくて離す事なんて出来なかった。

「馬鹿、何すんだ、離せ!」

「いいえ、私が頑張った分のご褒美くらい頂きませんと割に合いません」

「はあ!?」

 抱き寄せた侭、メフィストの口角は高く吊り上がりそっと瞳を閉じた。どうにか離れようと燐はメフィストの背中をバシバシと掌で叩く、けれどもメフィストの抱擁は緩まる事はない。現在は噛み合う事のない二人の感情とは違い、橋に映る黒く細長い影は唇を重ねているようだ。影達だけは一足早く、その気持ちを通じ合せていた。





知らずのの話


Thanks<空想アリア

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