幻覚と現実 | ナノ




※少し暗めな話



 燐は朝が苦手だった、どうも寝る事に執着してしまうらしく目的の時間に起きにくい。燐はふと思う、昨夜はどんな夢を見たのだろうか、何だか寝起きが悪かったと思うのは気のせいだろうか。カーテンの間から差し込む朝陽が眩しい、目許を指先で擦りながら既に起きているメフィストに向かって声を出した。

「おはよ」

「Guten Morgen(おはようございます)☆、燐君」

 こうして燐の何時もの朝が始まる、燐から言えば無駄にだだっ広い邸にはメフィストと燐しか住んでいない。極々稀にメフィストの部下らしい人物が訪ねてくる事を除けば高い崖の上にある邸にでも住んでいるのでないかと錯覚する位に誰も訪れず、メフィストと燐は本当に二人きりだった。

 メフィストは仕事で邸を留守にする事も多かったが定時には必ず帰ってきており、仕事らしい仕事をまるでしない時も多く、燐はその度にこいつはこれで大丈夫か?と心配にはなるが今の所生活に支障がある様子は無かった。
燐は燐で、家事に忙しい。料理はともかく、この広い邸の掃除を一人でこなすのはかなりの重労働といえよう。しかし与えられた仕事を放棄する訳にも行かず、燐の背の二倍はあるだろう窓に現在は苦戦を強いられていた。

「絶対にこんな馬鹿デカイ窓なんていらねー」

 放棄しない、とはいえ愚痴を言いたくなるのは別の話なのだ。燐は唇を尖らせながらも鉄製の脚立に腰を下ろして高い所を拭く。硝子というものは指紋が目立ち易く気を使う場所だ、けれどその分綺麗にすると分かりやすい。つまりメフィストが喜ぶ、そう思うと燐の口許は自然と緩んで作業にも力が入る。

 ふっと硝子に映る自分、燐の姿。その首元にはピンクに白の水玉という似合いたくはないが燐には不似合いのスカーフ。メフィストが燐に渡したものだ、どんな時でも着けていて欲しいと言われて寝る時と風呂場以外では外さない。

「汚さないようにしねーと、……何言ってんだ俺、くそっ」

 ポツリと漏れた言葉に硝子に映った燐の頬は赤色に色付いていく、その頬の赤みを消すように力強く拭くがその赤は暫く消える事はなかった。それを繰り返している時、突如燐の手が止まる。
そういえばこのスカーフを貰ったのは何時だったろう、何故かそんな些細な事が思い出せない。最近の事だった気もするが、数年前だった気もする。
 何故だか例えようのない恐怖感がぐるぐると燐の胸の中に渦巻く。何処か吐き気さえも感じ、脚立にいるのは危ないと他人のように燐自身に忠告した。

「やべ、…何かの食い過ぎか?」

 脚立から飛び降りるよう床に降り、よたよたと足下が覚束ないながらも壁まで近寄り背を預けた。はあはあ、と荒くなった吐息を整える為に俯いて瞼を下ろした。
ゆっくりと深呼吸、けれど一度沸いた疑問は更に疑問を呼ぶ。そういえば、この邸に着たのも何時だった覚えていない。頭の出来は弟よりよくないが、ここまで物覚えは悪かっただろうか。

「…兄さん?」

 そうだ、と燐は頭をガツンと殴られたような衝撃を受ける。閉じていた瞳を見開いて驚愕する、燐には雪男という双子の弟がいるではないか。その雪男の、耳に届く声に反応して顔を上げれば弟はいた。

「……雪男?」

 雪男の息は荒くて忙しなく肩は上下に揺れ、その額には汗が滲んでいた。一瞬幻覚かと目許を指先で擦るも雪男は消えずにしっかりと存在している。物音はしなかった、いや、思考に没頭しすぎて燐が気付いていなかっただけなのか。しかしここにいるならばそれでいい、燐は笑う、満面の笑顔、実の弟が会いに来てくれたのだから。

「遊びに来てくれたのか?いやー、悪いな、全く連絡しなくてよ」

「…、兄さん?」

「お、お前の事を忘れていた訳じゃねーからな、覚えてた覚えてた!」

「っ……、」

「何だよ、ノリ悪いな、そこは」
「っ、兄さん…っ!!」

 広い室内に響き渡りそうな、悲しみが満ちた大声。びくりと肩が跳ねて蒼色の瞳は雪男に釘付けになった、ゆらりと雪男の右脚が前へ踏み出す。右腕も伸びてくると燐の肩を力強く掴む、その握力は強く襲う痛みに燐は眉を顰めた。

「んだよ、怒ってんのか?」

「……え、…いよ」

「え?」

「聞こえないよ、兄さん…、僕には何を言ってるか、わからないよ」

 燐は首を傾げる、聞こえないという雪男の言葉がわからないからだ。さっきからは燐は普通に声を出している、寧ろ大きい程だろう。雪男の言葉の意味がわからない、わからないというのに燐の心臓は煩く、どくんどくんと何かが焦る。次の言葉を聞くなと、聞いてはいけない気がするが耳を塞げずに掌は汗ばんでいく。

「…やっぱり、声がもう、出ないんだね」

 ピシリと何かが何処かでひび割れた音が聞こえた。そうか、そうだったと理解していく、思い出していく。燐は声を殺されていた、悪魔を憎む、魔神を憎む祓魔師によって。運が悪かったのだ、声帯を切り裂かれて本当なら再生する筈がしなかった。何故か出来なかった、そして幾度も幾度も繰り返されたせいなのか喉元には醜い傷跡が残った。燐は防衛本能に従い青い炎を立ち上げた。その炎は、全てを燃やして燃やし尽くした。
 燐は大切だったのだ、声が。前までは執着などしなかった、けれどメフィストが言った。貴方が私の名前を呼ぶのが何よりも好きです、と。それなのにもう呼べないと知った、二度と燐自身の声で愛しい名を呼ぶ事が出来ないと理解した。そして、壊れた。

『あ、ああああッ』

 ぱくぱくと口だけが動いて永遠に声にならない悲鳴が漏れる。かくんと壊れた人形に力が抜け脚が折れて両膝が床につく。雪男が燐を繰り返し呼んでいる気がする、けれど雪男は本当にここにいたのだろうか。燐の瞳は虚ろで目の前は真っ暗だ。そのまま床に倒れていくように前方に身体が倒れていく、けれどそれをそっと優しく白いマントが燐を包んだ。
 ふわりと浮遊感、眼前には鶸色の瞳。白のシルクハットを被った道化師、メフィストが燐の身体を横抱きに抱えていた。それに気付くと燐の瞳に段々と光が戻り、くしゃりと顔を歪ませ幼い子供のようにポロポロと涙を溢した。

『悪い、ごめんな、悪ぃ、名前呼べなくて、好きって言ってくれたのに』

 今朝と変わらず悪魔という同胞にしかわからない思念で意思を伝える、何回も何回も謝罪だけを。メフィストは気にする様子もなく口角を吊り上げ、ニィと歪んだ笑みを浮かべた。
ゆっくりと顔を寄せ涙の溢れる目尻に舌を這わせて、涙をぺろりと拭う。そのまま、額にちゅとわざと音を鳴らして唇を寄せた。

そして耳許で優しいバリトンで囁く。

「…もういいのですよ。おやすみなさい、また明日」

そうして、涙に濡れた目許を紫色の手袋が覆い隠した。




♂♀




 燐は朝が苦手だった、どうも寝る事に執着してしまうらしく目的の時間に起きにくい。燐はふと思う、昨夜はどんな夢を見たのだろうか、何だか寝起きが悪かったと思うのは気のせいだろうか。カーテンの間から差し込む朝陽が眩しい、目許を指先で擦りながら既に起きているメフィストに向かって声を出した。

『おはよ』

「Guten Morgen(おはようございます)☆、燐君」

こうして燐の何時もの朝が始まる。





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