暑いなって思って手を伸ばしたら柔らかい髪が指に触れた。
髪、とすぐに解ったのは、わたしが少しだけ目を開けていたからで、もっと言うと相手も目を開けていたから。
わたしたちが少しの間見つめ合ってしまった。
「…」
「おはようさん」
いや、そんな当たり前みたいに挨拶をされても困る。
貴方は誰、という台詞も咄嗟に出てこずにただ…あれ、おかしいなって思って。
人はなぜか不安になると背後を確かめたくなるというけど、それは本当らしい。
反転したら、赤也が転がっていた。
「…赤也が」
「あぁ、浮気して彼女にビンタ食らったとかでうちに来てな。しばらく愚痴とか自棄酒に付き合っとったんじゃが…赤也の奴、潰れてのう」
「…で、わたしはなんで」
「お前さんは赤也を迎えに来て…まぁ、あれじゃな」
「…」
「全く覚えてないんか?」
そう言われて辿る昨日の記憶。
確か赤也から電話があって急いで指定されたアパートに行ったら、この白い髪が出てきたような…
わたしは自然と、さっきまで触れていた彼の髪に再び手を伸ばしていた。
「なんじゃ?」
「やっぱり柔らかい…」
そうだ…そうだよ、この人だ間違いない!
それで事情を説明してくれているうちに、前に赤也から聞いていた先輩だってわかったんだ。
あー…うん、なんか段々ぼんやり思い出してきた。
「あ…ごめんなさい」
無意識に彼の髪を撫でていたわたしは、それに気付いて手を引っ込めた。
「少しは思い出してくれたかのう」
「えっと、まだ…ほんの少ししか」
すると彼は、面白いものを見たとでもいうようにニヤニヤしながら、わたしの顔を穴が開くほど見つめてくる。
あまり印象は良くなかった。
昨晩はどうだったかまだよく思い出せないが、少なくとも今のわたしにとっては。
「ならクイズは初級からじゃ。…そうやの…俺の名前、当ててみんしゃい」
ほら、なんだか面倒臭い。
「名前、ですか」
んー、名前、名前…
わたしは赤也がよく言う先輩たちの特徴を思い出そうとする。
白い髪は…詐欺師…だっけ?
名前は確か…
「にお、先輩でしたっけ…?」
「ほう、覚えてるんか。だが残念、仁王じゃ、におう」
におうだ、と言われてある映像(それは多分昨夜のものと思われる)が一瞬フラッシュバックした。
「どうした?」
「あ、ううん…なんでもない」
「そうか、じゃあ罰ゲームとして俺の質問に答えてもらう」
「質問?」
なんの罰ゲームかはあえて聞かなかった。
おそらく名前を間違えたからだと思うし、それよりも質問というのが気になった。
「なんですか、質問って」
「なに、簡単なことよ。俺が知りたいのは、お前さんが赤也の浮気相手かどうかだけじゃ」
「昨夜のわたしには聞かなかったの?」
「YESかNOで答えんしゃい」
やっぱりわたしはこの人が苦手だ。
いきなり逃げ道のない2択、鋭い眼光。
この状況じゃ答えざるを得ない。
「YES、だけど」
「やっぱそうか、彼女に悪いとは思わなかったんか」
「思わない。もうあんたの尻拭いはごめんだって言ったら、赤也が泣いて縋ってきたんだもの」
決してわたしは赤也が好きなわけじゃない。
あいつも、ずっと一緒だった幼なじみに見捨てられそうになってパニくっただけだと思っていたし。
だからわたしはその日の出来事、主に夜の情事をなかったことにして忘れるつもりだった。
「だが、問題はそう簡単に解決しなかったわけか」
「…まさか、赤也が彼女と別れようとするなんて思わなかった」
「なるほど、そういうことだったんじゃな」
彼は、妙に納得した様子で深く頷いた。
「で、なんでわたしは仁王さんと隣同士で寝ているの」
「なんじゃ、怖いんか」
すっと伸びて来た手にわたしの指が捕まる。
「…っ」
まただ。
また頭の奥で何かが聞こえる。
ちらつく残像、反響する声に思わず頭を押さえたら、彼が冷たい指でわたしのこめかみに触れる。
「離して…」
彼とわたしの間に何があったのか知るのが怖い。
こうしてちゃんと服を着ていて、しっかりブラのホックだって止まっているのに。
その目に見つめられていると、どうしようもなく子宮が収縮してたまらなくなる。
「お前さんは寝ている赤也を起こしてすぐに帰ろうとした。だから止めた」
「どうして」
「どうしてだと思う?」
もう一度、どういうことと尋ねる前に、床に転がっていた赤也がもぞもぞと起き上がり、わたしたちの会話は中断される。
「ん…あれ、俺…あ、におー先輩っ!」
まわりをぐるぐる見渡して、あっちゃーと頭を掻いている。
「あの…すんません俺、」
「赤也、もう帰りんしゃい。彼女がいなくても一人で帰れるじゃろ」
仁王さんが視線でわたしを差すと、赤也は怪訝な顔で「なんでお前がいんの」と言う。
「なんでって…」
「あーあのよ、なんか言いづらいんだけど…俺あん時どうかしてたわ。ごめん」
「……」
「あん時のアレは、別にお前が好きとかそういうんじゃなくて、ただなんつーか…うまく言えねーけど、とにかく俺が好きなのは今付き合ってるやつだけなんだよ」
そしてそこまで言うと、赤也は立ち上がり仁王さんにお辞儀をして部屋を出ていこうとドアノブに手をかける。
最後に振り返った赤也が「ホント、わるい」と言ったのと、ドアが閉まる音が聞こえたのはほぼ同時だった。
「………」
頭の中で情報がこんがらがって訳が分からない。
赤也はわたしを好きじゃない。
わたしも赤也を好きじゃない。
でも赤也は彼女と別れようとしてひっぱたかれたんじゃなかったの?
それに昨夜は、「すぐに来てくれよ…お前がいなきゃダメなんだよ…好きなんだ」って電話をかけてきたのではなかったか。
だから仕方なく指定されたアパートまで来た。
断って自殺でもされたら困ると思って…
「どういうこと…?」
わたしが眉間に皺を寄せたまま動かなくなり数秒後には、フッと隣からほくそ笑む気配、ゆれた空気。
すると彼は、バサッと布団から出ていってくるりとこちらに向き直った。
「自力で思い出せたら、答え合わせしちゃるき」
ま、それが出来ないようにたらふく飲ませたから、すぐには無理じゃろうけどな。
ズキン、ズキン
さっきからずっと後頭部から響く音に頭が割れそうだった。
思いだせそうで、思い出せない昨夜の記憶…
でももうさすがに分かる。
わたしはきっと、昨日この部屋に入ったときから既に網に掛かっていたのよ。
あとはタイミングを合わせて緩急を付けて引き上げるだけ。
最初から全部、彼のシナリオ通りなのかと思ったら少し悔しいけれど。
「記憶がなくても、感覚は覚えとるじゃろ?」
ズキン、ズキン
頭の奥で鳴っている不協和音の正体は…。
「わたしは昨夜、貴方を好きになったのね」
そして、それはきっと
「今も変わっていないんだわ」
言うと同時に、私の上に影が落ちて。
にやりと上がる口角の下に、白い首が晒されて思わず下舐めずりをしてしまいそう。
「俺はそのずっと前から、お前さんを好いとうよ」
(全ては俺の思惑どおりぜよ)
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