生まれて初めて持つ感情に俺は戸惑いを覚えて、どう彼女に接していいのか分からない。

うつむき加減に俺を見上げてくる目が少し潤んでいて、それだけでもう目を合わせることもできずに、そんな俺はきっと彼女に冷たい奴と思われているに違いない。



それはもう夏も終わる頃。
まだまだ残暑が厳しい、アスファルトが熱を吸収していく暑い日のことだ。

俺はいつものように本を読みながらバスに乗っていた。
すると、以前顔面から床に投げ出されそうになった女がチラチラとこちらに向ける視線を感じた。
もちろん無視していたら、彼女は俺がバスを降りる際、慌てて駆け寄ってきて何故か分からないが手作り感漂う編みぐるみを手渡してきた。


「は…?」

「あの、ぬいぐるみはお守りっていうか…あの、危険から身を守って身代わりになってくれるっていうから、あの」

「はぁ、」

「あの!貰ってください!」


…………。


なんなんだ、というのがその時の正直な感想。

だが世の中何があるか分からないもので、俺はその日の帰り道、よそ見運転の車に危うく殺されかけたのだ。


「…!」


尻餅をついたまま、茫然と去っていく車を見つめて。
ふと足元に目線を落とすと、あの編みぐるみがボロ雑巾のように潰れほつれていた。


そんなバカな…!とか、まさかな、と何もなかったように忘れ去ることは出来たと思う。
でもそれが正しいことだとは思えなかった。

頭の中で彼女の言葉がループした。

"きっと、この子があなたを守ってくれるはずだから"


俺はそのパンダのような、いや、もしかすると猫にも見えないことはないそれを拾い、バッグにしまった。

今にして思えば、きっかけとしては十分だったのだ。



次の日、いつもと同じバスで彼女を見付け、それからはりんごが坂を転げ落ちるように今に至る。

最も、俺も彼女も好きという言葉を直接相手に伝えた覚えはないから、本当に恋人なのかと言われると微妙なのだが。
少なくとも、俺はそのつもりでいる。


「……」

「……」

「……」

「あ、あの…」


なんだよ、と目線だけで問うと、えっと、と口籠もりすぐに視線をそらされる。これはいつものことだ。
彼女をそうさせているのが自分だという自覚があるからこそ、そうした彼女…比奈を見ると無性にイラついてしまう。


「…お前さ、言いたいことがあるなら言えよ」

「う、ううん!ほんと、なんでもない…の」


依然として埋まらない距離。
その埋め方が分からない。

毎日同じバスで隣に座り、帰宅するだけ。
会話はほとんどなし。
いや、始めの頃はこんなじゃなかった。
始めの頃といってもまだたった二週間前ぐらいだが。

比奈はその日一日の出来事をよく話してくれたし、俺も密かにそれを楽しみにしていた。

それが今じゃこんな有様。

彼女は常に下向き加減で、俺もそんな彼女に何も出来ず次の停留所で終わり。

あぁ今日もこのままか。

諦めてバッグに手を掛けたとき、彼女が勢い良く顔を上げた。


「あの、日吉くん!」

「?」

「あの、あのね…えっと」

「…なんだよ」


口籠もる彼女に思わず冷たい声が出てしまった。
肩をビクッと震わせて今にも泣きそうになる比奈


「あ、…悪い」

「ううん、いいの…」


彼女は意を決したように俺に詰め寄り、あろうことか腕を掴んできた。


「な、なんだよ」

「あの、」


私と付き合ってほしいの!

そう彼女は言った。


「は?」

「だから、私と…えっと、ダメ?」

「いや…」


ダメというか…ちょっと待て。

俺は頭の中で事の成り行きを組み立て直した。


「…あ」

「な、なに?」

「いや…なんでもない」


バスが停留所の前で停まる。もう降りなくては。


「返事は、いつでもいいから」

「ああ…そのことだが、」


俺はもう付き合ってるつもりでいた、と伝えると彼女はきょとんとした顔で俺を見つめ返してくる。


「じゃあな」


ポカンとする彼女を残し、俺はバスを降りた。

馬鹿げた話だ。
言葉でわざわざ言わなくても分かるだろうと鷹をくくっていた結果がこれ。
おそらく比奈は、いつ話を切り出そうか迷っていて挙動不審だっただけだったのだ。
つまりは、言わなくても伝わるなんて思った俺が甘かったということだ。

だがもういい。こうして結果が付いてきたのだから。

行ってしまったバスを振り返り、彼女の呆気にとられた顔を思い出して思わず口元が綻びそうになったが、それをぐっと堪える。

そうだな、明日はもう少し、まともな会話が出来るのを祈ろう。





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