バスに乗っている彼に恋をしました。
いつも同じ時間、同じ場所に立って吊り革に掴まる姿に一目惚れでした。
夕焼けに照らされるその横顔は何にも勝るほどきれいで、私の心臓は静かに高鳴り、一瞬で心を奪われてしまったのです。
でも生憎、私には知らない人に声をかける勇気はなくて、いつもただそっと見ているだけで。それでもとても満足でした。
ある日、彼は赤い髪の小さな男の子と一緒にバスに乗ってきました。
それは夏の出来事でした。
赤い髪の小さな男の子は彼をひよしと呼んでおり、私はその時に初めて彼の名前を知ったのです。
「なぁ、日吉」
「…なんです」
「絶対勝てると思ったのに、なんで俺たち負けたんだろうな」
「……」
彼はいつも、有名進学校のジャージを着て大きなバッグを背負っていたので、何かの運動部に所属しているのだろうと推測していましたが、それが確信に変わった瞬間。
彼らは私がこんなに耳をダンボにして盗み聞きをしているなんて気付くはずもなく話を進めました。
「なーんか悔しいけど、完敗って感じだよな…」
「ふん…次は絶対勝ちますよ」
「おう!…って俺は来年からまた下っぱかー」
「へえ…高等部でも続けるんですか、テニス」
「あったりまえだろ!まだまだ飛んでやるぜ」
話から察するに、彼らは恐らく何らかのスポーツで誰かに負けたらしく、私は少し悲しい気持ちになりました。
好きな人が辛い思いをしていて、それを嬉しがる人間などいないでしょう。それは話をしたことすらない私の片思いであろうとも変わりません。
すると突然
キキーッ!
「あっ…!」
バスが急停車をしたらしく、私の体は前のめりに傾きました。
まずい、このままじゃ顔面からアウトだとわかっていても、傾く体は戻りません。
「あ…え、?」
ふわり。
例えるならそんな形容詞でした。
一瞬、全ての音が消え、動作がスローモーションに見えました。
「…ふん」
バスが完全に停まると、彼は何も言わずに私を支えていた手を離し、ちっと舌打ちをしたのです。
どうやら助けてもらったらしいと分かったのは数秒あとのことでした。
「おいお前、大丈夫か?」
赤い髪の小さな男の子が私の顔を覗き込み尋ねてきます。
「ったく、おーい運転手!危ない運転すんなよな!」
私は何も言いませんでした。
いえ、言えなかったのです。
あまりに突然のことに頭が真っ白けになり何も出てきてはくれませんでした。
「つか日吉やるじゃん!なんかドラマみたいだったぜ」
「ふん…」
「おれらもう降りるからさ、お前ここ座っていいぜ?」
ニカッと白い歯を見せながら笑う小さな男の子は、第一印象からとは打って変わり、とても頼もしく男前に見えました。
「あ…えっと、ありがとうございました」
なーにいいって!と言いながらひよしくんと共にバスを降りていく小さな男の子。
次の瞬間、前を行った彼がくるっと振り返り私の靴を指差し言ったのです。
「…あんた、靴ひもがほどけてるぜ」
それが彼が私に話した最初の一言でした。
その日は興奮して頭が冴えなかなか眠れずに長い夜を彼のことばかり考えて過ごしました。
憧れの人に抱き留めてもらったことや、どんなに短くて愛想のない言葉でも私に向かって話し掛けてくれたことも、全てが奇跡のように思えたのです。
それからというもの、私は寝ても冷めてもひよしくんのことで頭がいっぱいになってしまい、何も手に付かない日々が続いています。
このままじゃいけないとなんとか振り払おうと努力はしましたが、いずれ無理なことが分かり、恋心には際限はないのだろうと勝手に納得をして思う存分彼のことを考え続けました。
「今頃なにしてるんだろうな…」
授業中、思わず洩らした独り言を隣の席の親友が聞いてしまったらしく、激しい追求に合いながらも私は片思いを確かに楽しんでいました。
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