23時。深夜キャストに簡単な引き継ぎを済ませて休憩室に駆け込む。入った途端、噎せ返った。通しで入って1時間前に上がっていたフリーターのそいつが、未だ制服のままパイプ椅子に座って煙草を吸っていたのだ。
「…お疲れ様」
「お疲れ」
こちらを一瞥すると、また紫煙を燻らす。もう何本目だろうか、灰皿に押し付けられた残骸は少し見ただけでは数えられなかった。
「煙草、もうすぐ値上がりだろ?禁煙しねえのか」
「止めようと思えば、止められる」
「それ、喫煙者はみんな言うのな」
そんな他愛ない会話を繰り返しながら、明日の面子を確認しようとシフト表に目をやる。縦にずいと見て行くと、珍しくこの男の欄にぽっかりと穴が開いている事に気付く。フリーターの癖に、祝日に休みとは良い度胸だ。そう思うと同時に、予定など入れるとは思えないこいつが、わざわざ休み希望を出した事が意外で仕方なかった。
「なあ、明日休み?」
ふと湧いた好奇心が、口を滑らせていた。すると少し考えたように、首を傾げてみせる。それは、何故聞くのか、とでも言いたげに。
「…ああ、悪いか」
「いや、悪かないが…ほら、学生の俺がせっせと働いてる中フリーターのあんたが休むっての、何か不公平じゃねえ?」
「…時間数の問題じゃあないのか」
そう言われたらもう何も返せない。ただ勤務時間が少し被っているだけの野郎の予定を知りたい、なんて俺も焼きが回ったか。そうか、とそれで終いにしようとシフト表を置いて、更衣室に駆け込もうとすれば、鼻で笑うのが分かった。
「知りたいんだろう?」
ただ一言。それなのに、心臓を鷲掴みにされたかと思った。何も考えていないようで案外鋭い。たまたまだけかもしれないが。(と言うか大抵の奴なら気付く)黙ったまま動けないでいる俺に、指先で灰を落として、そいつは言った。
「明日は俺の誕生日だ」
え、今なんて言いました?誕生日?たんじょうび?あ、何、意外とそういう記念日とか行事とか気にするタイプ?笑って良いのか、それともおめでとうとでも声を掛けてやれば良いのか。
「…あ、ああ。そうだったのか…あ、彼女に休み取ってとか強請られたとか」
「まあ、そんなものだな」
へえ、そうか。彼女いるんだ、こんなヒモに。少しばかり胸が痛くなったのには気付かない振りを決め込んで、黙っていれば確かに顔立ちも整っているよな、なんて他人事みたいに、先程までの好奇心がすっと引いていくのを感じた。そうか、女がいるのか。それなら仕方ないな。
「…そっか、野暮な事聞いて悪い」
「別に野暮じゃあないさ。重要な事、だろう?」
どういう意味なのだろうか。ねっとりと絡み付く視線は居心地の好いものではなく、愚行を省みる事しか出来ない。
「あ、じゃあ俺、先に着替えるな」
今すぐ此処から逃避したい。投げやりに放って、今度こそ更衣室に逃げ込もうとすると、ぐ、と引っ張られる感覚。腕を、掴まれていた。その手は思っていたよりも熱く、嗚呼、この男も人間なんだな、なんて現状から逃避するように思考が働いた。
ゆっくりと、顔を見る。煙草は何時の間にか、灰皿へと消えていた。
「…一人に、するなよ」
その何もかもが、狡いと思った。ごくりと唾を飲み込む音は、きっと聞かれているのだろう。目を逸らしたくとも逸らせない。
「…予定に、なってくれるんだろう?」
駄目だ、こいつ。救いようがない。そしてそれにまんまと乗ってしまう俺も、どうしようもない。
抵抗してみたかったらしてみろ、と言わんばかりの緩慢な動きで、腕を引き寄せられる。近付いた顔は、やはり煙草臭くて。けれど、嫌いじゃなかった。
この時ばかりは、明日の俺のシフトを8時に組んだ店長を呪った。(そしてこいつはきっとそれも分かっているんだ)
(111126)