執着Auge

残業は効率が悪い。常々そう思う。
朝からの勤務で身体は疲れきって怠いし、何より定時を一時間ほど過ぎた頃から集中力が格段に落ちだす。それでも定時前に押し付けられたつまらない仕事を終わらせるために、名前は残業をする。
明日はせっかくの土曜日。仕事を持ち帰るなんて無粋すぎる。0時38分の終電に間に合うようには終わらせたい。
眠気覚ましの為に、休憩スペースの自販機でしこたま買い込んだ最後のブラックコーヒーを飲み干し、苦さに顔をしかめ、ラストスパートをかけるように腕まくりをしてからキーボードを叩いた。



「よし!終わった!」

終電20分前。会社から駅まで徒歩5分、充分間に合う時間。
名前はぐんと伸びをして身体を軽くほぐすと、手早くデスク周りの片付けを済ませ、さっさと鞄を掴んだ。22時台くらいまではちらほらといた同僚も皆帰ってしまったらしく、オフィスはしんと静まり返っている。最後になった名前は電気のスイッチを全て切ると、闇に包まれた寂しいオフィスを後にした。

昼間と比べるとだいぶ暗いが、まだ明かりが灯っている廊下を歩くと、コツコツと、名前のヒールの音だけが響く。不気味で不安な気持ちが名前を自然と早足にさせる。階段を駆け下りて帰ろうかと考えていると、エレベーターの前に人影が見えた。疲れで目が霞んでいてよく見えないが、背が高いというくらいは分かる。男性のようだ。

−−−私以外にもまだ残業してる人がいたんだ。

他者の存在にほっとした気持ちになり、やっぱり階段はやめてエレベーターで下りようと近付くと、エレベーターを待っている男性もこちらに気付き、顔を向けた。

「!」

名前を見て驚いた表情を浮かべたのは、ここの社長の御曹司アーデルハイド・バーンシュタインであった。名前とアーデルハイドはあまり面識がない。いや、仕事上では何回か関わったことがあるが、下っ端の名前とは一言二言交わすだけ。プライベートな話はおろか世間話もしたことがない。社内ですれ違うこともほとんどなく、軽い挨拶すらも全くないと言っていいくらいだ。

「お疲れ様です」
「お疲れ様です。こんな時間まで仕事…ですか?」

アーデルハイドは、少しはにかみながら名前に問いかけた。それとほぼ同時にエレベーターが到着し、ドアが開く。ドアを手で制しながら、アーデルハイドは名前に「お先にどうぞ」と促した。ただそれだけの行動で、彼が紳士的だというのが分かる。

「はい。……ええと、息子さん、もですか」

純粋に、なんと呼んでいいのか見当もつかなくて、息子さんと言った。会社の者がアーデルハイドの噂をする時、大抵「息子」と呼ばれているのを名前は知っている。それが咄嗟に出てしまった。
アーデルハイドは頷きながら口元をゆるめるが、柳眉は悲しげに下がっている。それを見て、呼び方を間違えたのだと瞬時に理解した。アーデルハイドさん?バーンシュタインさん?それとも役職名?11階、10階と減っていくディスプレイの数字を見ながら考える。

「アーデルハイドと、そう呼んでいただけると、嬉しいのですが」

斜め後ろに立っている名前を振り返り、紡いだ言葉の語尾は消えるように小さい。

「その、あなたとは、同い年ですから…名前さん」
「どうしてそんなことを…」

下の名前も、年齢も、どうして知っているのかと聞こうとした瞬間、ガタン!とエレベーターが大きく揺れた。
アーデルハイドは名前の体に手を伸ばし、抱き込むようにして支える。そのお陰で転ばずに済んだが、かわりにアーデルハイドの胸に顔を埋めることになってしまった。趣味のいいスーツから爽やかな匂いがする。香水だろうか。
エレベーターは力をなくすように徐々に動きを鈍くし、やがて停止した。揺れが収まってすぐに解放されるかと思ったが、アーデルハイドは中々名前を離そうとしない。腕に閉じ込めたまま数十秒、一層に力を込めて抱きしめる。

「あ、あの、アーデルハイドさん…」

さすがに苦しくなってきたので、胸に顔をうめたままくぐもった声で呼びかけた。

「!……すみません!私は何てことを」
「いえ、助けてくれてありがとうございます」

笑って礼を言うと、アーデルハイドも安堵の表情を浮かべる。いつもは仕事中の至極真面目な顔つきしか見たことがなかったが、笑うと彼の綺麗な顔がより引き立つと思った。

「…故障でしょうか」
「そのようですね。電気はついていますから、停電ではなさそうです」

アーデルハイドが処置として行き先階ボタンを全て押してみるが、うんともすんとも言わず、何も起こらない。最寄りの階まで動いてくれる様子はないようだ。

「管理室に連絡してみましょう」

階数ボタンの下にある、非常用のインターホンを押した。すぐに応答があり「どうしました?」という声がスピーカーから聞こえてくる。アーデルハイドが管理人とやりとりをし、管理人からエレベーター会社に連絡が行き、このエレベーターは故障していて、遠隔操作ではどうにもならないのでエンジニアが来てくれるというのだが、それにはどうしても1時間半ほどかかるらしい。その間、アーデルハイドと名前はここに閉じ込められたままになってしまう。

「ゆっくり待ちましょう。狭い所は平気ですか?」
「大丈夫です。でも、終電が…」

腕時計を見ると0時30分前。今すぐエレベーターが動けば何とか間に合うが、1時間半も動かないとなると為す術がない。折角頑張って残業を終えたのに、こんなことで足止めを食らってしまうだなんて、全くツイてない。

「私で良ければ車でお送りします」
「でも」
「いえ、送らせて下さい…と言ったら強引でしょうか」
「では甘えさせて下さい」

物腰も、雰囲気も柔らかい人だと思う。髪の色も目の色も日本人とは違うから高圧的に見えてしまうこともあるが、近付いてみればなんてことはない。なるほど、アーデルハイドは見た目が与える印象とは真逆の中身をしている。「息子は社長と違って野心がない」などとよく噂されているが、それも頷ける。

「立っていると疲れてしまいますから、座りましょう」

アーデルハイドはジャケットの胸ポケットから皺ひとつないハンカチを取り出し、自身が腰を下ろしたすぐ横に敷いた。ここに座れと。名前のスカートが汚れてしまわないようにと。
恐れ多くて固辞しようとしたが、どうやらアーデルハイドは他人に尽くす気質があるのではないかと、先程からの一連の出来事で分かってしまったような気がする。固辞しても結局はやんわりと元の流れへ引き戻されてしまうのが目に見えた。名前は有難く、アーデルハイドの横に座る。エレベーターには床マットが敷いてあるから冷たくない。アーデルハイドの胸ポケットにあったハンカチが、まだ彼の温もりを持っているようで少し居心地が悪い。

「寒くはありませんか?」
「あ、はい」
「今日はいい天気でしたね」
「そうですね」
「明日もいい天気だそうですよ」
「そうなんですか」
「仕事は順調ですか」
「はい」

いかにも「会社の全く親しくない人と、その場を繋げるための会話」をする。名前があまりにも素っ気ない返事しかしないもので、アーデルハイドは話題を探ろうと必死だが、名前には名前の、気もそぞろになるような、のっぴきらない事情があった。

−−−−−トイレに行きたい。

眠気覚しの為にがっぱがっぱと飲んだコーヒーが名前を苦しめる。
本当は、残業中に行こうと思っていた。しかし、ここまで仕事をしたらトイレに行こうと言うのを繰り返し、もうすぐ終わるから終わったら行こう、トイレが暗くて怖いから駅のトイレに行こうと、己の膀胱を過信し、結局行かずじまいにしてしまった自分を恨む。こんなことになると知っていたら早く行ったのに。こんなことになると知っていたら階段で帰ったのに。自分の選択を今更悔やんでも仕方ない。はぁ、と長めのため息を小さく吐いた。

「名前さん」
「はい」
「その…すみません。面白い話のひとつもできなくて…」
「え?」
「遊びや流行りに疎いもので…。同年代の方と、しかも女性と、仕事以外の何を話せばいいのか分からなくて」

何を話してもうわの空な名前のため息を、退屈の意思表示だと受け取ったのだろう。アーデルハイドは律儀に自身の至らなさを詫びた。その後に言った「あなたと話したいことが沢山あったはずなのに」の声は空調の音に紛れてしまう程の小さな声で、名前の耳に届かなかったが。

「いえ。目上の方なので緊張してしまって。すみません」
「そんな、同僚とでも思って下さい。出来れば、仲良くして頂けると…ええと」

もじもじしているアーデルハイドを見て、もじもじしたいのは私の方だと名前は思う。この男がいなければ今すぐ手で股間を抑えたい。バタバタ動いて尿意を紛らわせたい。
長い脚をぴったりと綺麗に揃えて、体育座りすらも優雅で育ちの良さを感じるアーデルハイドには何がなんでもこの状況を知られたくない。それが名前の自尊心である。しかしそれはいとも簡単に崩れ去ろうとしている。

根拠はないが座ったままでは膀胱が圧迫されているような感じがして、立ち上がる。もう1時間くらい経ったような気がするのに、腕時計を見ても針はちっとも進んでいない。
アーデルハイドにバレてしまわないようにスカートの中の膝を擦り合わせる。太ももを合わせて力を入れる。脚を交差させたり戻したり。こんなのでは足りない。こんなことをしたって治まらない。

「名前さん?」

そわそわしている名前を見てアーデルハイドも立ち上がる。

「気分が悪いのですか?やはり閉所恐怖症なのでは」
「違います!ぜんぜん、大丈夫ですから」
「でも先程から落ち着かないようですし」
「それは、その…」

言い淀む。うまい言い訳が思い浮かばない。
アーデルハイドが心から名前を心配しているは伝わっている。嘘をつくのは気が引けるが、真実は絶対に言えない。
考えあぐねながら内股になり右足で左足をぎゅうっと踏む姿を見て、アーデルハイドは勘づく。

「もしかして、名前さん…女性にこんなことを聞くのは失礼かと思いますが…」

皆を言うまでに、その通りですと言わんばかりに名前の頬がかあっと上気した。背すじに冷や汗が流れる。穴があったら入りたい。死ねるものならばこの場で死にたいと思う程恥ずかしかった。



[ 1/7 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -