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高校一年生の頃の話だ。
その頃、私は読書の楽しさを覚え始めたばかりで、毎日放課後になると、学校の図書室か市立図書館に足を運んでいた。その二つを併用すれば、国内外問わず、名のある文豪たちの作品はカバー出来た。
ブームに火をつけたのは童話で、幼い頃に読んだ絵本や教科書で読んだ物は、読みやすく要約されたり抜粋されていたりしていたのだと改めて痛感した。かじった程度とは言え、一度は目に通した作品もとっても新鮮で、本当の楽しさをそこで初めて知ったのだった。自分が子供だった頃に読んだ絵本の数々は、とにかくどれもが楽しくて、ファンタジックで、キラキラしていたように覚えている。だから、全集や文庫を読んで、哀しい別れや悲惨な結末まで描かれている本来の童話の姿に衝撃を覚えた。そしてそれを、高校生に成長した当時の私は、きちんと受け止めて楽しむ事が出来たので、まんまとハマってしまったのである。
その日、授業が終わるなり私は、上機嫌で図書室へ向かった。もとより、その日は時間がたっぷり取れるとわかっていたので、朝から何を読もうか考えて来たのだった。
そう、学生に必ず訪れる、テスト前の勉強期間だ。
校舎の東側、二階の隅にある図書室はテスト勉強をする生徒が多く、いつもよりもずっと混んでいたけれど、みんな騒ぐ訳ではないので問題ない。るんるん気分で大きな長机の並ぶ閲覧コーナーを抜けて行く途中、遠巻きにされる澱んだ空気の一角に気づいた。その根源こそが、太刀川だった。
わかりやすいくらいに唸り、頭を抱えて教科書やノートを睨みつけている太刀川慶がそこにいた。
(触らぬ神になんとやら…)
そう思った私はすごすごと奥の本棚まで進み、目当ての本を探し出した。ディケンズの「クリスマス・キャロル」。これは今年のクリスマスまでには絶対に読んでおきたいと思っていた作品だ。分量は多くないので、これから一週間続くこの時間を使って読み切ってしまおうと目論んでいた。
ほくほくしながら閲覧コーナーに戻ると、太刀川の唸りは一向に改善されていないままだった。おいおい。行きを見過ごした手前、無視をした罪悪感もあり、それとなく太刀川の座る席の横を通る。ちらりと覗き込むと、太刀川の目下の敵はどうやら数学のようで、手元のノートを見るに一つの問題でつかえている。数式はあってるけど………あぁ。
「太刀川くん、それ、」
「う〜ん…んん?なにアンタ」
「…………、太刀川くん、ここ。これ、足し算がかけ算になってる」
「は?なに?……おお、本当だ!」
「………」
なんてことない。ケアレスミスだ。
この人が今後もここで唸り続ける様子が簡単に予想出来、仕方がないので本は借りて家で読もうと決めた。ここでは集中出来そうにない。カウンターに向かうべく歩き出そうとした瞬間、「おいアンタ」と腕を引かれた。
掴まれた腕の先には真っ直ぐな視線があって、思えばあの時から、あの視線に捕まっていたのかもしれない。
「アンタ頭良さそうだな。上履きが赤って事は、同じ一年だろ?なぁ、勉強教えてくれよ」
「…いや、私も自分の勉強しなきゃなんで」
「だったらここでやれば良いだろ。そうだ!一緒に勉強しよう!」
「い、やぁ、でも私そんな頭良くないっていうか…」
「俺より出来ればそれで良い」
「……あ〜…」
結論から言うと、折れた。私が。
私は太刀川の事を知っていた。
なんたって同じクラスだ。まぁ、太刀川は私を知らないようだけれど、それも仕方がない事だろう。
彼は入学初日から大変目立つ存在だった。
当時の太刀川慶少年は、まだ今のように髭も生えていなくて、でも今のようにスタイルも良く、男前な顔をしていた。その容姿で、女子たちが放っておくわけがない。女子の関心を一身に集めつつも、自由奔放でどこか残念な彼の内面が男子たちからも受け入れられ、あっという間にクラスの、学年の人気者となった。
一方の私は大人しい子たちのグループに混じり、教室の隅で慎ましく過ごしていた。だから、太刀川が私の事を知らずとも当然と言えば当然で、責める事などない。ただ、日陰でこそこそ息をしていた所を、無理矢理陽の当たる場所の真ん中に引っ張りだされたようで落ち着かない。太刀川の隣に座っているだけで集まる視線が、煩わしかった。
目は文字を追っているのに、話の内容がなかなか入ってこなかった。クリスマス・キャロルを読み切るのには時間がかかりそうだなぁ、と内心でため息を吐いた。
「……なぁ、前回のテスト、何位だった?」
視線は目の前の教科書に据えられたまま、尋ねられる。視線は向けられていないのに、あの真っ直ぐな視線に見つめられているようで、なんだか嘘を吐けなくなる。不思議な力のある人。
「…1位」
「やっぱさっきの嘘か。絶対出来ると思ったんだ」
「別に、部活とか習い事とか、バイトもしてないし…時間あるからだよ」
「高校生なんて、時間があったら遊ぶか寝るだろ。いつもテスト前勉強しないのか?」
「しない。毎日家で復習予習するし、サイクルを乱すのは好きじゃない」
「へ〜すごいんだなぁ。ところでサイクルって何?自転車?」
「………」
読んでいたページにスピンを挟み、太刀川のペンケースを勝手に漁ってシャーペンを取る。カチカチと芯を出して、彼の目の前に開かれたノートに公式と問題を解く手順を書き込む。さっきから、太刀川が手を止めて悩んでいる問題のヒントのつもりだ。
「おぉ!次からそういう大事そうなのは赤ペンで書いてくれ」
「…勉強はつまらない?」
「ん?あぁ、まぁな〜。俺、身体動かしてる方が好きだしな」
「体育、得意だもんね」
「得意…まぁ、好きだな」
「何事も、物事を楽しむ為には力が必要なんだよ。だからそうやって、得意と好きはある程度繋がってる」
「…………」
「誰だって、わからなければ勉強なんて楽しくないよ。太刀川くんだって、解ける楽しさを知れば勉強が進むと思う」
「へぇ、アンタ、いいな。面白いな」
気づけば、隣に座る太刀川は、面白そうに私を見ていた。子供みたいに屈託のない、楽しそうな表情で。
「今まで勉強しろとは散々言われて来たけど、そんなふうに説いたのはアンタが初めてだ」
「…そりゃどうも」
「なぁ、名前は?」
「(それ、今頃聞くか?普通)…藤岡」
「藤岡なに?下の名前だよ」
「……岬。藤岡、岬です」
「岬!岬か!」
「ちょっと、もう、ボリューム下げて…!」
悪い悪いと笑う太刀川は、きっとちっとも悪いと思っていない。一体何が嬉しいのかかなりご機嫌がよろしい様子で、その後も逐一私の名前を呼んだ。
岬、岬、と。
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