城戸さん家のハウスキーパー


2月の始めの事である。ふと壁に掛かったカレンダーを見て、不吉な13日の金曜日の翌日にバレンタインデーが控えている事に気が付いた。
すぐにこの家の主様の予定を脳内で確認し、作れそうなチョコレートのお菓子を考えて、それからやっと、その人の顔を思い浮かべた。

「…………」

ないな。ないない。
あの人が甘いお菓子を食べる姿が想像出来ない。
そもそもこんな浮ついたイベント事、気にするどころか知らないのでは?という結論に至り、その時は一度、バレンタインを思考から流した。



私がハウスキーパーを勤める城戸さんのお宅は三門市の高層マンションの最上階、そのすべてのフロアを占める豪邸である。
最初は家事代行サービス会社に登録をし、そこから派遣されていた。信用されているのか無頓着なのか(すぐに無頓着なのだと思い知る)初回から鍵ごと渡され、不在時の時間を指定され、リクエストされた家事や雑務をこなし、彼が帰らぬ内に家を後にしていた。徹底的に仕事だけを与えられるスタンスに、それならそれでと、週に2回訪れては仕事をこなしていた。彼と顔を合わせた事など最初の挨拶時のみで、それさえ挨拶もそこそこに鍵を渡され、彼は家から出て行った。
それでも一応、お世話をさせて貰っている家の主である。ハウスキーパーとして通うものの、何度訪れてもまるで生活感のない状態に多少の不安もあった。言われるがまま作り置きをしていた食事が、次に来た時にもまるごと残っていたりもする。ほんの少しだけ乱れたベッドの様子に、やっと安心するなんて。ほとんど帰らない家に、私は本当に必要なのだろうかと何度も思った。
そんな時に転機が訪れる。いつも通り訪問したら、城戸さんが家に居たのである。そんな事は初めてで、私は何度も日時を確認した。
(間違いない…)
意を決して室内に足を踏み入れるも、彼の姿はどこにも見当たらなかった。残るは寝室のみとなる。やる事はいつもと同じで、仕事自体はこちらに任されている。挨拶をせずとも良いのかもしれなかったが、それでも気が引けた。寝室の扉をノックする。
「こんにちは」
「……」
おやすみ中だったら申し訳ないわけだが…。苦悩の末にもう一度だけノックをし、返事がなかったので「失礼致します」と少しだけ扉を開いて中の様子を窺った。
ベッドの上に人の膨らみがあった。
やはりお休み中でしたか!「失礼致しました」と小声で伝えて扉を閉めようとした瞬間、ごほっ、と咳が聞こえてきて手を止めた。
弾かれたように体が動いていた。
「失礼します」
返事を待たずに部屋に入りベッドサイドに近づく。勝手に布団を少し捲ると、顔を赤くして少し汗をかいている城戸さんの姿があった。
「!」
「ちょっと失礼します」と額に手を当てると、相当熱かった。思わず眉をしかめる。
「……いい」
「何がですか?起き上がれますか?一度着替えた方がいいです。今、体温計を持ってきます」
「…大丈夫だ。放っておいてくれないか」
「っ、いい加減にしてくださいっ!!」
「ーーーー」
この人は自分にすらも無頓着なのだと知って、腹が立って、思わず怒鳴ってしまった。雇い主に怒鳴るなんて、とすぐに冷静さが帰って来たけれど、後悔はなかった。私の勢いに押されてか、その後は私の言うままに体を拭いて着替え、体温を計り、おかゆを食べて常備薬を飲んでくれた。氷嚢を作って大人しく眠っている城戸さんの額に乗せて、たまに汗を拭ってやりながら洗濯と掃除をし、城戸さんの様子が大分落ち着いた頃にメモを残して、鍵を閉めて、使った鍵を郵便受けに入れて、家を後にした。
もうここに来る事はないだろう。残したメモにもそう書いてきた。会社も解雇されるかなぁ、と思いながらも、清々しかった。ようやく後悔をしたのは翌日、駅にあった無料の求人誌を捲っている時。
ところが数日後、会社を介して城戸さんから連絡が入った。今後も続けて欲しい、と。
「…お元気そうで、何よりです。先日はとんだ御無礼を…」
「いや、こちらこそ世話になった。……君は、」
「はい?」
「君は、もう、嫌になってしまっただろうか」
そう言って、私よりも十五歳も年上の男の人は、皺の入った無骨な手のひらに乗せた鍵を差し出してきたのだ。
断る理由がどこにもなかった。



そんなこんなで城戸さんの家のハウスキーパーとして復帰し、それから徐々に通う日も多くなり、もうほとんどの事を判断も含めて任されている。城戸さんが家に帰って来る事も多くなり、やがて「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」の挨拶を言うまでに、そう日数はかからなかった。会社の規定する最大利用時間がネックになり、不自由にはさせないとの城戸さんの言葉に会社を辞め、今では直接雇われているのだから驚きだ。

「香織」
「はい?」

夕食を済ませ、食器を重ねて片付けながら思い出に耽っていると、キッチンのカウンター越しに城戸さんが私の名前を呼んだ。キッチンはダイニングキッチンになっていて、空間が繋がっている。

「冷蔵庫にあるケーキは、香織が作ったのか?」
「あ」

おそらく水でも飲もうとして冷蔵庫を開けたのだろう。冷蔵庫の中には、昼間に私が焼いたチョコレートケーキが入っている。
今日は2月14日だった。結局気になって作ってはみたものの、出そうか出すまいか悩んでいる内に見つかってしまった。

「あ〜…甘い物とか、苦手じゃありませんか?」
「構わない」

構わない。その一言にはどれほどの意味が込められているのだろう。まだ付き合いは短いけれど、それでも少しはこの人の事が分かってきたつもりだ。この「構わない」は「甘い物は苦手だが、君の作った物ならば『構わない』」と取りたい。
自惚れが過ぎるだろうか?
でもとりあえず、食べて貰えるという事がただ嬉しかった。










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