菊地原とハッカー


本部の東西南北と中央に置かれた5つのエレベーターホールの内、一番使用頻度の少ない北側のエレベーターホール。そこには4つのエレベーターと、脇に職員用の一回り小さなエレベーターが設置されている。ほとんど使用されない職員用のエレベーターに乗り込むと、行先ボタンを4つ押した。
8、9、2、9。「8929。『やきにく』だ」と菊地原に教えた風間が言っていた。完全に香織の趣味だろう。
階床表示灯の表示が「B10」を示す。

ポーンという音と共に扉が開く。
一定の間隔で付けられた電灯が申し訳程度に廊下を照らしている薄暗い世界。ここでは時間の感覚がどうも鈍る。
一本道の廊下を歩いた先にある部屋の扉は常に開け放たれていて、彼女は大抵ここにいた。
廊下よりは明るい、人口の光が照らす部屋の半分には沢山の画面が立ち並び、壁側の机には上にも足下にも書類がうずたかく積まれている。部屋の反対側には簡易キッチンと食器棚、冷蔵庫、食事用の机と椅子が置かれている。目当ての人物の影はなく、コンピューターの機械音だけがした。
隣の部屋には大きなスーパーコンピューターが並び、そこに居る事もある。隣かな、と思っていると、後ろから扉の開閉音がして彼女が立っていた。
菊地原の姿に気がつく。

「おや、シロくんだ」
「おや、香織さんだ」

年中白衣を纏い、色の付いたレンズの嵌った眼鏡をかけている女性。真っ白な髪と紙のように白い肌、赤い瞳。人間離れした容姿。
人型ネイバーではない。香織は所謂、アルビノというやつだった。
アルビノは先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患がある個体の事で、広く動物全般に見られる。人間にもだ。
アルビノは日光に弱い。紫外線に弱く、皮膚がん発病のリスクが非常に高いのだ。また視覚も光に弱く、暗い場所を好んだ。太陽の下に出られない香織にとって、この地下奥深くが生きる場所なのである。それを、彼女は悲観的に捉えてはいない。

「はい、食べたがってたやつ」
「!わっ、ポンデリングだ!ありがとうシロくん!嬉しい!」

持ってきた紙袋を差し出すとすぐに開いて、その中身にはしゃぎだした。外界から縁遠い香織だが、その権力・財産はボーダー上層部の幹部に匹敵するという真しやかな噂を耳にした事もあったりなかったり。確かに衣食住に困った様子は見た事がない。その割に俗っぽい物というか、香織は菊地原が持ち込んだどんな物にも嬉しそうに喜んだ。
「お茶にしましょう」との香織の言葉に、一緒に簡易キッチンに並ぶ。もう何も言わずとも多くの事が当たり前となった。
普段コーヒーをブラックで飲む香織が、菊地原が来た時には甘い紅茶を淹れる事。ひよこの柄の、菊地原専用のマグカップが置かれている事。紅茶の準備は香織の担当で、食器を並べるのは菊地原の担当である事。

「いっただっきまーす」
「はいどうぞー」

おいひい!とドーナツを口いっぱいに頬張る目の前の女の主な仕事は、あらゆるサイバー攻撃からボーダーの情報を守る事と、上から要求されたあらゆる情報を手に入れる事だ。
香織の体質の問題と仕事内容の問題。二つの問題から、結果、香織はここで生活をし、生きている。寝室もシャワールームも、香織が生活に必要とする全てがこの地下10階に揃っていた。ここは香織の城だった。

菊地原は幼い頃からこの体質と付き合ってきた。そして、早々に無闇に他言をしなくなった。
あいつ変だよ。私たちの話とか全部聞いてるって事?こわーい。ひそひそひそひそ、ひそひそひそひそ。
(うるさい)
誰が好き好んでお前らの話なんて聞くんだ。僕だってこうなりたくてなったわけじゃない。
(うるさいうるさい)
勝手な事を言っていた奴らも、学年が上がり、中学に進んだ頃にはもうすっかり菊地原の聴力の事など忘れてしまっていた。散々好き勝手言っていた癖に、興味をなくして時を経れば忘れてしまうなんて呆れた生き物だと思った。
そんな時に、この聴力はサイドエフェクトという特別な能力である事が判明した。菊地原の周りは再び騒がしくなった。
風間に声をかけられたのはその頃だ。風間に声をかけられてすぐ、静かな場所を教えてやると言ってここへ連れて来られた。以来、定期的に足を運んでいるのはここが気に入ってしまったからである。
(ここは静かだ)
外界と遮断された世界。地上の人間は溢れる雑音に埋もれないトーンで話す。地上に比べて段違いに静かなこの場所で話す香織の声は、他と比べて小さい。勿論、菊地原がその声を聞き漏らす事などない。

「ごちそうさまでしたー」
「はい、どういたしましてー」

食べ終わると皿を片付けてカップに新しくお茶を淹れ直す。
香織は9面の画面が立ち並ぶ指定の場所に体育座りをして、キーボードを叩き始めた。その香織の背中にもたれるように、菊地原も足を抱えて座る。
香織と居ると、もともと静かだったけれど、慣れるともっと静かになった。奴はもともと話さない方だが、慣れてくると更に口数が減る、と風間が言っていた。その通りだった。

(しゃべらなくても良いんだ…)

規則正しくキーボードを叩く音とコンピューターの機械音。
呼吸のしやすい沈黙に沈むように、菊地原は目を閉じた。










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