Nameless Song(2/3)
 冬の太陽は呑気にも南半球でバカンスを楽しんでいて、日本の空はどこもどんよりと重い灰色だ。街中に流れる音楽はクリスマスのような神聖さも、ハロウィンのような陽気さもない。半音下がった世界でも、バレンタインの持つ独特の甘い響きは肌で感じ取れた。
 服も食品もなんでも揃う隣町のショッピングモールに足を伸ばしていた。年が変わってからなかなか時間が取れなかったが、普段行かないところまで赴くのは悪くない。自分の耳では受け入れられない鼻歌も、人々の賑わいに紛れさせればそこまで気にならない。
 店内でも一際賑わっていたのが、有名なチョコブランドが一同に集まった特設のバレンタインコーナーだった。季節柄仕方ないし毎年恒例の光景なのだろうが、やっぱり異様だ。同様のイベントのはずなのにホワイトデーは全く盛り上がらないのだからその異様さは明らかだ。勤め人と思しき女性の団体がまとめ買いをしていたり、まだ児童と呼ばれる年齢であろう少女が母親と一緒に包装のデザインを選んでいる。バレンタインと一口に言っても、近年はお歳暮やお中元のような意味合いが強くなりつつあるのかもしれない。
「お待たせしましたァ」
 白い小さな紙袋を手に、店員が客を呼ぶ。チョコレート色の制服と対峙するのは見覚えのある深緑のコート。緑は彼女が一番好きな色だ。
「ありがとうございましたァ」
 安心したような、満足そうな彼女の表情。チョコのブランド名が大きく描かれた紙袋を肩にかけていたカバンにしまい、何事もなかったかのように特設コーナーから抜け出していく。ブランド名は僕でも知っている、高級で有名なものだった。
 見つめ続けるのも何となく悪い気がして、僕は彼女に気付かれないようにその場から反対方向へとそそくさと立ち去った。


 二月十二日。大学で設定されている試験期間の最終日だ。道行く人々の中にはスポーツで一汗かいたような爽やかな表情もちらほら見える。しかし数多の神々を恨むほどに苦悶の表情を浮かべる人も、いないことはない。
「今年も終わったね」
「気管支炎にレポートに試験。本当に大変だった」
「なんで一年の感想を促してるのにそんな感想しか出てこないのよ」
 なんでもない話、なんでもない時間。普段より半々音ほど低い彼女の声。ノリを合わせたり無理に笑顔を作る必要がない彼女との時間はやはり居心地がいい。
「試験続きの日々が終わったんだから、しょうがないじゃないか」
 どうしてもそれを失うことを考えられない。
「つまんないんだから……つまりこの季節ってわけ」
 サクサクと雪を踏んでいた足を止め、先日見たあのショルダーバッグをおもむろに開け始める彼女。例の白い紙袋が脳裏をよぎる。これから披露されるマジックの種を既に知っているような、頬のあたりがくすぐったい感じだ。
「今年度はとてもお世話になりました。はい、どーぞ」
 手渡されたのは、予想を裏切る青い紙袋。口は太めのマスキングテープでしっかり止められている。
「……え?」
「もらえないと思った? さすがにこれだけお世話になったんだもん、それなりの気持ちを伝えるよ」
 ……ああ、はい。
 僕は全てを理解した。
「なんか嬉しくなさそう」
「そんなわけ。ありがとう、美味しくいただくよ」
 これは”お歳暮”だ。
 そりゃあわざわざ高いお金を払って僕なんかに”お歳暮じゃない"チョコをくれるわけがないのだ。そういうのは本命の役得で、女の子はちゃんと区別ができている。青い紙袋には特段ロゴが書かれているわけでもなく、明らかに安っぽかった。バレンタインデーというのは、幻想的な響きを持ちながら、どのイベントよりも現実的だ。
「久しぶりにそっち行きたいんだけど、今からどう?」
「まだ耳が変だから、曲は作れないけど」
「ああ……早く良くなるといいのにね」
 現実的な分、思い知らされる。僕らはただの趣味が合う"友達"なのだと。


 二人分の紅茶を用意して、ちゃぶ台に届ける。この彼女の一連の動作にさらに無駄がなくなった。ここは誰の部屋なんだろうと、自分の部屋ながら思うこともたまにある。
 文化祭が終わってからしばらくお互いに、いわゆる"燃え尽き症候群"に陥った時期が続いた。それが過ぎゆきそろそろ曲が作れるかなと思った矢先に気管支炎と試験期間が僕を急襲して、なんだかんだで今に至る。
"一年が過ぎ去った"。彼女は臆することなくその事実を口にしてしまう。
「本とかモノは積もれば積もるほど空間を埋めていくけど、音楽は形がなくて便利だね」
 意味深長な物言いだ。形が無いことを"便利"と形容したことは無いけれど、そういう認識はあってもいいのかもしれない。
「音楽だってCDとかいう媒体で管理されてるけどね。本だって、全部諳んじれるなら部屋に置く必要無いし」
 物理的であろうがそうでなかろうが、残ることは"強さ"だと思う。時の流れに逆らう強さ、人の記憶に残る強さ、価値を与えられる強さ。そういう点で人間はやっぱり儚いし弱い。だから人間は遺産に執着するのかな。今は見えない後世に願いを託して、モノや記憶に思いを寄せて、人は残すことに価値を見出す。
「……あのさ」
 強気な発言を繰り返す彼女にしては珍しい、落ち着いた声色。
「あと何曲、私はあなたの曲を歌えるかな」
 それはいつかの夏の日、燃え尽きたステージが回収されるのを二人で眺めていたときにも聞いた声色だ。
「……可能な限り、努力するつもりだよ」
「不可能な時って、どんなとき?」
「今みたいに、音の感覚がこのまま一生狂い続けてたら無理だ」
 彼女のために曲が作れなくなる日、それは僕が一番考えることを恐れていた瞬間だ。このご時世、離れていたってやり取りはできる。でも不可能になる可能性なんていくらでも挙げられる。
「同様に、僕が死んだらお終いだね」
「そんな当たり前なこと聞いてない」
 言葉尻にも表情にも苛立ちを隠しきれていない。どうしてそんなムキになる?
「じゃあ……僕の曲が君にとって必要なくなったらじゃない?」
 怖いのは、求めてもらえなくなること。僕自身が命や作曲の術を失うのと同じくらい、君の耳にも声にも心にも響かない曲に、僕は価値を見出せないだろう。
「そんなことあるわけないでしょ。他には?」
「……あるわけないなんて、言い切れないじゃないか」
 あからさまに不機嫌な顔をされた。なぜ君が怒るんだ。
「だって、『曲や歌詞を忘れそうになっても、その曲が君のためにあったことを忘れないでほしい』って言ったじゃん」
 テーブルの表面をゆっくりと辿って、彼女の指が僕の指に触れる。すがるような、必死な表情が胸に痛い。
「あの言葉、私には」
 それらはそれが自然であるかのように、ゆっくりと繋がれる。
「告白に聞こえた」
 彼女の言葉は既に用意されていたように、ずっと彼女の中で発せられていたかのように、滑らかに走った。だめだと頭ではわかっていても、今は手のぬくもりの引力に逆らえない。
「今までの時間を、これからも求めちゃダメなの?」
 彼女を寂しがらせる全てのものから、彼女の心を揺らがせる全てのものから、そして何より自分の欲望から、彼女を守りたいと心から思っていた。
「僕は君の恋人じゃない。君の恋人の代わりでもない」
 それは信念にも近いものだと、自分でも信じていたのに。
「寂しさから守ってあげたかった。でも、ダメだったね」
 美しい雫が彼女の右目から左目から落ちていくのを、見ないようにしながら僕は言った。
「両方を失う前に、僕から離れて」
 好きな人を太陽に例える表現が世の中には存在するけれど、彼女は決して僕の太陽なんかじゃない。例えるならば暗い闇に溶け込みそうな、僕にも分からない僕の心に光を差し込んでくる月だ。夜空に輝くそれのように一定の距離を保って、遠くから綺麗な姿だけを見つめ続けるだけだと思っていた。
 彼女の開きかけた小さな唇はぐっと締められ、繋がれていた柔らかい温もりから僕の右手は解放される。冬の冷気だろうか、離れた瞬間ヒヤリと風がそこを撫でた。
 彼女を守りたい気持ちも、彼女を奪いたい気持ちも、どちらも同じ愛だというのか? だとしたら愛なんて、この世の何よりも冷たくて悲しいものだ。
 窓の外はもううす暗い。ベッドに体を倒しながら、彼女の帰路を照らす月が明るいことを願った。

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