綺麗なひと
 ヒロさんはとても綺麗で、不思議なひとだ。不思議というと本人には失礼かもしれない。けれど、チンピラみたいな若者かおじいちゃんおばあちゃんかの二極化が進んでいるこの港町において若そうにも関わらず洗練された印象がある彼の存在は、みんなの注目を集めてやまないのだった。

 ある時は港で漁師さんたちの手伝いをし、またある時は畑で農作業を手伝い、そのまたある時には町で唯一の本屋で店番をして。こんな風にして様々な場所に出没しては温厚な性格と抜群の容姿でみんなを惹きつけていく、それがヒロさんというひと。本名は赤崎寛(あかさき ひろ)さんというそうなのだけど、いつの間にか町の人たちは親しみを込めて『ヒロさん』と呼んでいた。

 そんなこんなで町のみんなとすぐに馴染んだヒロさんだけど、どうやら住まいはこの町ではないらしい。『姿を見かけないときは何をしているのか?』とか『趣味はなんなのか?』とか『そもそも歳いくつ?』とかその他いろいろ、ヒロさんには謎が多かった。人当たりのよい美丈夫だからお忍びで来ているいいところの次男坊かなにかなのでは、とかそんな風にみんな酒のつまみとばかりにわいわいと憶測を言ってはヒロさんに尋ねる。しかし、年齢は二十四だと教えてくれたけど、ほとんどの質問に対してヒロさんは口を閉ざして微笑むばかりだった。

 さて、そんなヒロさんがうちの家がやっている喫茶店にやってきたのは今年の春のこと。
カランカランとウェルカムベルを鳴らして入ってきた瞬間、私の意識はドアの前に立つ若い男の人に捕らわれた。着流した和服、目深に被っていた帽子を取って露わになった端正な顔立ち。

「コーヒーを一杯、頂けますか。よろしくお願いしますね、可愛いらしい看板娘さん」

 アールグレイティーのように清涼で澄んだ声。柔らかな笑顔。自然で美しい所作。私が会うのはこの時が初めてだったけど、彼がヒロさんだって、言われなくても分かった。
 ――今から思えばこの時にはもう、私は彼のことを好きになっていたのかもしれない。

*  *  *  *  *

 以来、ヒロさんはしばしばお店に来てくれるようになった。決まってコーヒーとトーストを頼んで、新聞や本を読んで静かに過ごしている。私と世間話をすることもあるけれど、なんとなく話しかけるのがはばかられていた。
 だって、とっても絵になるものだから。何の変哲もない窓際のテーブル席がヒロさんの存在によって芸術作品みたいに色鮮やかに映るから、私はそれを崩したくなくて近づけないでいた。ときどき私を愛称の『りっちゃん』と呼んでくれるだけで十分、むしろおつりがくるように思っていた。りっちゃん呼びはお客さんみんながよくしているけれど、ヒロさんからなら特別嬉しい響き。

 ……こんな調子だったからかな。憧れた・惚れたといっても何をするでもなく、こうしていつの間にか月日は流れてしまったのだった。

 いつの間にか出会いの春は過ぎさり夏を迎え、海辺にあるこの町は海水浴客で日に日に賑わいを増していた。うちの喫茶店も例外ではなく、町の外からたくさんのお客さんが来るようになり連日忙しい日々を過ごしている。祖父母と母親、家族総出で働いてもぎりぎり回るかどうかで、てんてこ舞い。

 そして、町外からのお客さんが増えだしたころからヒロさんはお店に来なくなっていた。みんなに話を聞いてもヒロさんを最近見かけてないそう。ヒロさんはこの辺鄙な町に愛想をつかしたのだろうか。
 考えだしたら寂しくなって、コーヒーを淹れながらカウンター越しに窓際、ヒロさんがよく座っていたテーブル席に目を向けては溜息をつく。とはいっても、心の中での話だけど。昔から地域にある喫茶店でお客さんの多くは顔なじみといえども接客業。お客さんの前で溜息なんてついちゃいけない。

 今日もウェルカムベルはひっきりなしに鳴っていた。商売繁盛ありがたや、ありがたや。でもそろそろヒロさんが見たいなぁなんて思いながら、ひとり閉店後の店内で帳簿をつけて明日の仕込みをして、砂や水で汚れた床や座席を掃除して、ちょっとカウンター席でうとうとして……気が付けば夜中の十一時を過ぎたところ。
 やばい、まずい、寝すぎた。自分でびっくり。思っていた以上に疲れてたんだ、お疲れさまです私。ちょっとは手伝ってくれてもいいのに……親はこの店を私に継がせたいみたいだからしょうがないのか。トントンと腰を叩いてから体を反らして伸びをしてエプロンを脱ぐ。さぁ家に帰るか。家族みんなもう寝てるだろうな、静かに帰らないと。

 カランコロンと鳴るウェルカムベルに留守番を任せて店を出る。
 私を真っ先に迎えたのは生温い潮風と満月。疲れやさみしさやその他いろいろで、やけくそ気味にサビしか知らない曲を鼻歌で歌いながら海岸線の遊歩道に出た。

 等間隔で立つ街灯が遊歩道を照らすけど、昼間みたいな賑やかさはどこにも見当たらない。今宵の波はとても穏やかで満月の光を反射してきらりと光って……あれ? 
 思いがけないひとの姿が目に飛び込んできて胸が波打つ。砂浜へと繋がる石段に座る着物の男性。話しかけようか、どうしよう。こんなところで話しかけたら変に思われるかな。いや、でも、ここは。
 悩んで、悩んで、逡巡して。
私は踵を返した。

「おや、喫茶店のお嬢さんでしたか。こんばんはりっちゃん」
「……こ、こんばんは」

 うそ。まさか気づかれてしまうとは。びっくりして反射的に振り返ってした返事は声が上擦ったしガラガラだし。やだ恥ずかしい。

「よかったら少しばかり、世間話をしませんか」
「あ、はい」

 ヒロさんが柔和な笑みを湛えて手招きをしてくるから、観念しつつ正直に反応する心音をなだめつつヒロさんの隣に駆け寄り、石段に腰かけた。

「りっちゃんお久しぶりです。お変わりありませんか?」
「はい。お店はなかなかに忙しいですけどどうにか。海水浴のお客さんが増えたものですから。今夜も明日の準備だとか片付けだとかいろいろしていたらこんな時間になってて」
「そっかぁ。ご苦労さま」

 社交辞令の労いだとしても、ヒロさんからの言葉だから素直に嬉しい。疲れたからだへ甘い紅茶のように染み渡っていく。

「ヒロさんもお元気でしたか? 最近うちの店に来られてなかったし、町のみんなもヒロさんを見かけないって言ってましたよ」
「少しばかりね、帰省していたんだ。僕も変わらず元気だよ」
「そうだったんですね。ほっとしました、もうこの町には戻ってこないんじゃないかって。それは寂しい……あっ、ひとりごとです気にしないでください忘れて」
「ふふっ。心配してくれてありがとうね」

 熱くなった頬に手を当てつつ笑顔のヒロさんから目を逸らす。しばらくは上手く顔を見られそうにないから、目の前の海を見ることに専念しようか。昼も夜も見慣れすぎた景色になだめてもらう。ぽつぽつと灯りが点在している対岸は、渡るなら船で一時間半ほどの距離。実はあちら側に行ったことはない。いつか行くような用事もできなさそうだけど。

「りっちゃんは対岸に見える灯りが何か知ってる?」
「赤いやつですよね。ええっと、発電所です。火力発電所。夜も動いているのでああやって煙突が光ってるそうですよ」
「そうなのか。そっかぁ、素晴らしいね」

 向こうの光を指さして感嘆の声を上げたヒロさん。
 ヒロさんは変わらず綺麗なひとで、私の心臓はさっきからうるさい。……でも、何故だろう。気のせいかもしれないけどヒロさんの声がどこか物憂げに聴こえてしまって、私はちろりと横顔を盗み見る。
 ヒロさんはじっと海を、いや、海のずっとずっと向こうを見ている。そんな気がする。ヒロさん自身の持つ独特の雰囲気も相まって、ここではないどこかにすぐにでも飛び立ってしまうかのような。そんな雰囲気だ。

 何かを話しかけたい、話しかけなければ。せっかくのチャンスなのに。ヒロさんとお別れする前に。でも、いざ口を開けても言葉は出てこない。もどかしさを抱えたまま時間は過ぎていく。ヒロさんも私もお互い何をするでもなく、ただただ波の音が流れていった。

 腕時計を見れば時刻はまもなく零時。あっという間。

「実はね」
 不意にヒロさんがこちらを向いて口を開く。
「この町に移住しようと思っていて。その準備もあって帰省していたんだ」
「えっ、あっ、そうなんですか?」

 これからはご近所さん? 見かけることが多くなる? 落ち着け自分。まだ決まったわけじゃない、ましてうちの店の常連になるとは限らないでしょ。落ち着け早鐘打たないの心臓。

「うん。娘も呼び寄せようと思っていてね」
「……むす、め、さん? ヒロさん、奥さんと娘さん、いるんですか」

 息が詰まった。雷が落ちたような衝撃にしどろもどろ、突然のお知らせに頭がパニック。
 いやでもそっか。そっかあ。ヒロさん既婚者か。そうだよね、このヒロさんだもんね。馬鹿みたい。私、馬鹿みたい。最初から何も出来なかったのにひとりで妄想して寂しがって。馬鹿みたいだ。思わず膝を抱える。

「妻は鬼籍に入って二年になります、娘を生んで間もなく。法事もあっての帰省でした」
「……そうだったんですね。ごめんなさい、こんなことを聞いてしまって」

 どうしよう、雷に打たれた上に墓穴掘った。これ以上自分で自分に追い打ちかけたくない。何よりヒロさんに申し訳ない。
 呆れられてもいいのだ。でも、嫌いになってほしくはない。土俵にも立ってないのにわがままを言っている自覚はある。だけど、うちの店に来ていてくれるだけでいい。それだけでいいから。

「大丈夫ですよ。むしろありがたいかもしれません。決別のための移住ですから」
「そう、なんですか?」
「そうなのです。不思議な話に思われるかもしれませんが。そして個人的に、この町が気に入りましたので娘も連れてきたいなぁと。町のひとにはよくしていただいているし。勿論りっちゃんにもね」

 先ほど見えた愁いを隠したかのようにヒロさんは笑う。私もつられて笑ってみせる。……ヒロさんは『決別のため』と言った。それならば、もしかしてチャンスがあるのではないか。自惚れかもしれないけど、私にもチャンスがあるのでは?

「ありがたいです、みんなも喜ぶと思いますよ。私もヒロさんの娘さんに会ってみたいです」

 今宵ヒロさんを見かけたときのように私はまた逡巡する。悩んで悩んで、それでも今回は答えが早く出た。
やっぱり五分十分じゃ諦められそうにない。ひと月や一年後はわからないけど……それでもきっと、今みたいな調子なんだろうな。
 だから、ヒロさんごめんなさい。私は手を伸ばしてチャレンジしてみたいと思うのです。

「そうだヒロさん、今夜はお暇ですか? これからうちの店来ませんか、移住するかも祝いで。軽食ご用意できますしお酒もありますよ」
「りっちゃんは帰るところではなかったの? こんな時間まで引き留めてしまった僕が言える台詞ではないけれど」
「寝ようと思えば簡易ベッドがあるので大丈夫です。こんな時間に帰っても親を起こすだけですし、だったらもう店に泊まっちゃおうかなと。よく母や祖父もそうしていたし。でもひとりだと寂しいので、ヒロさんよかったらお付き合いください」

 看板娘らしい笑顔で。ほんの思いつきなんですよといった雰囲気を精一杯出して。まだ諦めないと決めたから、早速頑張ってみる。
 奥さんがいたとか今も奥さんのことを好いているのではとか、未確定で不安要素もある。でも、何もしないでひとりで舞い上がって撃沈するような真似はもうしたくない。憧れたひとの、その綺麗な手を握れるように努力してみると決めた。

「なら、お言葉に甘えようかな」
「ありがとうございます。私はまだ飲めませんけど、お酌くらいなら」
「えっ? りっちゃんって未成年だったんだ」
「はい。今年十九になります。そうは見えないってよく常連さんに言われますけどね」

 砂浜と寄せる波に別れを告げ、階段を駆け上って遊歩道。私は来た道を引き返す。今度はひとりじゃなく、ヒロさんと並んで一緒に。カウンター席で思わずうとうとするほど疲れていたはずなのに、足取りは驚くほど軽く感じられた。

 時刻は間もなく零時。今日くらいは。私の夜も恋も、またここから始めてみよう。

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