夜波に願いを
 家を出る直前、深夜一時丁度を指す時計を確認した。僕は自転車に跨がり、一人で走り出す。

『この川を下っていくと、海に着くんだって』

 いつかの彼女のそんな言葉を思い出しながら、ひとまず川を目指してペダルを踏む。深夜まで明かりのつく飲み屋の多い学生街を離れ、駅に向かう道とは反対側の道を走る。街灯は少なく、夜に沈む道を自転車のライトだけを頼りに進み、たまに照らされる雑草の色鮮やかさが闇に不釣り合いだった。
 もうすぐで川のある辺りだというところで水の流れる音が耳に届いた。耳を澄ませて流れる方向を聞き分ける。

「こっちでいいのかな」

 風が心地いい。彼女とよく話をするようになったのも、こんな季節だったような気がする。夏の終わりを感じ始めた虫たちと一緒に、初恋の歌でも歌いたくなる。
 でも僕は歌が得意じゃない。



 潮のにおいがきつくなってきた。「○○海岸まであと500m」などというさびれた看板も見えた。彼女とともに行動しない夜は、久しぶりかもしれない。自転車をこいでも、後ろを振り返っても、彼女の姿が闇から浮かびあがったりはしない。
 彼女は僕を必要としている。
 でも、僕はどうなんだろう――ふとそんな疑問が頭をよぎった。
 愛を超えるような愛でない何かを、僕はまだ知らない。でも、僕なりの答えは『U.G.』という一つの形で彼女に提示した。僕と彼女をつなぐ決定的な"何か"があるとしたらそれは僕の作る曲に他ならないという自覚もある。
 恋人のいる彼女をいつまでも自分の傍に繋ぎ止めようとする僕がいる。
 僕が彼女に求めていることって何なのだろう。



 大学生になって初めて海にやってくる僕を出迎えたのは、白く柔らかい砂浜と闇をも砕かんばかりの波の音だった。僕は少なからず恐怖を覚えて、一歩ずつ地を確かめるように海へと近づいた。きっと夜回りの警官に見つかったらまず職務質問されるところだろう。
 職務質問……?

(しまった、学生証を部屋に置いてきた)

 ……まあ、大丈夫だろう、きっと。
 歩いていると、波の中で激しくうごめく二つの影が見えた。得体の知れなさと丸腰かつ一人である不安に一瞬足を止めたが、声をよく聞けば朗らかに笑い合いながら海の水をかけ合っている男女のようだった。僕は一つ息をついて、向きを変えてまた歩き出す。
 生命の根源であるという海の、夜の姿を見るのは初めてだった。波の音は心臓の鼓動よりもずっと不規則で、あらゆる方向からのそれは入り交じり僕の体を震わせる。
 それでも僕は一歩、また一歩と海の方に近づき、潮の手が足下に届くぎりぎりのところまで近づく。死の淵に立っているような感覚ってこういうことなのかもしれないと思うくらい、今にも後ろに逃げ出したくなるほどに恐ろしかった。遠くではしゃぎ続ける二人のように海水に浸る勇気が出ない。
 たったの一歩が踏み出せないまま、僕は作りかけの曲を思い出していた。鼻歌は全身をふるわせるほどの波の音に簡単に負けてしまう。『U.G.』の歌いだしのGの音を、月のない闇の中で探した。



"惹かれ合う"それは万有引力
青い世界に君と僕は生まれた
たとえこの傷は消えなくても
痛み消える君の笑顔は魔法

教えてまずは君の答えを
まだ知らないこの気持ちを
目に見えないものなのに
どうやって名前をつけるの?

二人の世界を痛く照らす眩しい光の中
忘れようって決めた 君に惑う心が苦しいから
引力が強すぎる 忘れようとすればするほど
手の届かないほど遠い君を近くに感じる




 気づかないうちに鼻歌は歌声になって、僕は歌詞を口ずさんでいた。

「……っは」

 自分で作った曲なのに、息がうまく続かない。
 自分で作った曲なのに、高すぎて出ないキーがある。
 歌うことが好きな彼女のために作った曲なのだからそれらは当然のことなのに、どうしてか目の痛むような涙を誘う。
 いつまでも彼女が僕のものだという幻想を抱き続ける気はない。僕のものだ、なんてすでに傲慢な思いを抱いている勝手は十分承知だけれど、でもやっぱり今の彼女の関心は確かに僕に向いている。
 でも、もし”その時"がきたら、僕はどんな風に振る舞うんだろう。
 "ずっとここで曲を聴きたい”……そんな彼女の一言が”嘘"に様変わりするその瞬間を目の前にしたら、僕はどんな言葉を彼女にかけるのだろう。
 幻想は簡単に抱けても、現実を目の前にした自分の姿がまったく想像できない。それが怖くて僕はただ曲を作り続けている。そうして時間は過ぎていく。
 波が寄せては、足下にも届かないうちに引いていく。何も考えずに繰り返してきた日々に僕は願いをかける。


 僕は"今"以上を求めません。
 だから、"今"をずっとこれからも、僕に与えてはくれませんか?


 闇さえ飲みこまんとする飛沫の砕ける轟音は、そんな願いさえも粉々にしてしまうようだった。

「もう、二時になるのか」

 彼女の言葉に引き寄せられてたどり着いたこの場所で、僕は一人苦笑する。
 夜の海は何かを願う場所ではなかったな、と。

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