定刻に走り出した列車は白い景色をかき分けひた走る。窓に降り落ちる水滴は鋭い角度で跡を残した。暇つぶしに持ってきた厚めの小説は、半分くらいのところで話の整理がつかなくなってきて中断した。新しい事実が急にたくさん出てくると頭が回らなくなってしまう性分は、直したいけれどまだ直らない。
 鞄に本をしまって、代わりに携帯電話を取り出す。昨日受け取ったメールに再び目を通した。

『明日は何もない日だから、まったり過ごすと思う。そっちは?』

 何もない日、か。そこだけを読み返すとつい笑みがこぼれてしまう。自分の送信メールを飛ばし、次の受信メールを見返す。

『そっか、夜遅くなるんだね。お仕事大変じゃない? 無理しないようにね。
 帰省でそっち行ったとき、また会おうね』

 お仕事、と丁寧に言われるとなんかこう、新婚みたいだ。そう考えて馬鹿か俺は、と一人で突っ込む。

『ありがと。じゃ、おやすみなさい』

 一度でだいたい3回ずつ送り合うくらいが、自分たちの通常のやり取りだった。それが多いのか少ないのかはよく分からないけど、誤変換も文脈の違和感もない文章を読んでいると、丁寧に返事を考えて送ってくれているところが容易に想像できて心が満たされる。
 柚希が地元を離れて、もう一年が経とうとしていた。季節はまた春を迎え入れようとしている。

「次は終点……」

 アナウンスは低く車内に響き渡る。俺は一人、新幹線からホームに降り立つ。





 柚希には今日は夜までバイトだと言ってある。でもそれは半分嘘で、確かにバイトはあったが昼過ぎには終わった。柚希に嘘をつくのは少々胸が痛んだが、サプライズってそんなもんだろう。
 3月13日、ホワイトデーの前日である今日、プレゼントを贈りたいからと聞き出した住所を元に柚希のアパートを目指していた。柚希の驚く顔ととびきりの笑顔を早く見たい、この手で抱きしめたいと思うと、歩みは自然と早まる。
 都会の駅はまるでひとつの街のような賑わいで、外への出口も見えずただ明るい照明と賑やかな店が視界のずっと奥まで続いていた。どこに視線を向けても数え切れない人の頭が目に映る。耳には絶えず人々の注意を引かせる音が届く。地元は比較的のどかで、青春を過ごすにはつまらない街だ。しかしこんなせわしないところで柚希は過ごしているのかと思うと、何か物悲しいものが胸を締め付ける。
 標識を目で追いかけながら電車を乗り継ぎ、いよいよ柚希の家の最寄駅のホームを踏んだ。夜空の遠いところで月が光っている。歩いていたら、携帯が鳴った。珍しい、電話だ。

「……もしもし、柚希?」
『うん。お仕事終わった?』
「え? ああ、終わった終わった」
『そっか、お疲れさま。もうすぐ着く?』
「おう、もうあと5分くらいで着くところ」

 柚希の家にな、と心の中で続ける。

『そうなんだ』

 ぷつり、とそこで通話が切られた。そうなんだ、ってどういうことだ。

(ま、いいか。もうすぐ直接話せるし)

 そういえば、電話で話すのは久しぶりだった。久しぶりの電話が『そうなんだ』で切れてしまったのは少し寂しいような気もする。
 会いたい時に会えないことの寂しさは、柚希の大切さを教えてくれた。会いたさに身を切られるように苦しむ自分の弱さを思い知り、そして自分が強くならなければならないことを覚悟した。柚希に会える、ただそれだけで今日を生きる理由になった。夏休みや冬休みの待ち遠しさに、「未来」という言葉がなんとなく自分の中で形になっていったような気がした。
 柚希といると、新しいことが次々と形になっていく。それは昔からちっとも変わらない。

 白くて小さいドアに辿り着いた。震える指でインターホンを鳴らす。隣人に聞こえるのかどうかが少し気になった。
 ドアの向こうは無反応。

「あれ? いないし」

 今日はまったり過ごすって、言ってたよな……。

(まったり友達とご飯ってとこか……?)

 少し、待ってみよう。怪しく思われないようにドアの前から離れ、建物のそばで立ってしゃがんでを繰り返す。そこから無情な一時間半が経つとは思わなかった。





 再び電話が鳴る。地元よりは幾分寒さは緩やかだが、夜の風は指先を冷やしていた。柚希からだ。

『望道……』

 震える声はか細く、刺々しさも見え隠れしていた。部屋にもいない上に聞いたこともないような声色、不安を覚えた。

「どうした?」
『望道、今、どこ……? 本当に、今日仕事……?』
「え、っと……」

 お前の家の前、とか、死んでも言えるか。初めてのサプライズということもあり、気が動転したまましかし意固地な俺は返答に窮した。

『どうして嘘つくの? 隠さなきゃいけないことなの?』
「なん……」
『だって、待ってるのに、あと5分って言ったのに、帰ってこないんだもん』

 ごめんなさい、と最後に小さく絞り出して、柚希は電話の向こうで嗚咽を漏らした。
 待ってる、帰ってこない。そう言って泣き出した柚希の居場所は火を見るよりも明らかだった。

「……俺今、◯◯にいる」

 観念して現在地の地名を告げた。

『……え?』
「すれ違ったっぽいな」

 喜ばせようと思ったのに、泣かせてしまったな。

「俺も柚希に会いに行ってた。今、柚希の家の前にいる」

 はは、いっぺん死にてぇ。





 仕事が終わるであろう時間に合わせて俺を待っていたのだと柚希は話す。

『ごめんね望道。ちょっとだけ、疑っちゃった』
「いや、柚希は悪くない。俺の方こそ、ごめん」
『ううん。今度からこういうサプライズはお互い禁止ね』

 柚希がふふっと笑う。きっと今日のサプライズが成功していても、いずれ似たような失敗をする日が来るだろう。今日はお互いいい反省になったのかもしれない。

『もともと帰省のつもりで来たから、私は実家に向かうけど……望道はこれからどうするの?』
「適当に泊まるところ見つけるよ」
『無駄な出費させちゃうね、ごめんね』
「今日のことで謝るのももう禁止で。気をつけて帰ってくれよ」

 話も長くなってきた。言い忘れたことはないかと、考えを巡らせる。
 言い忘れではないけれど、思いついたことが一つ。

「明日、朝イチでそっちに向かうから……会おうな」
『わかった……待ってる』

 おやすみ、と挨拶を交わし通話は切れた。サプライズでも何でもないが、ちゃんと柚希に会えるホワイトデーになりそうで一安心した。

「さて、ホテルはどこなんだ」

 春が近づいたところで、人が集まったところで、都会は寒くて寂しい場所だった。結果的に地元で会えたのは、そこが俺たちにとって大切な”帰る場所”だったからかもしれない。
 
 
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