所々欠けた大理石の階段を、僕はゆっくりと踏みしめるように上がっていく。

 煙が立ち込める室内は防護マスク越しでも視界は悪い。けれど、僕の記憶がしっかりと羅針盤の役割を果たしてくれたおかげで道を間違うことはなかった。
 銃を構えたまま慎重に階段を上りきる。軍の情報と僕の記憶が確かなら、確かこの階の突き当りにいるはずだ。注意を払いながら僕は廻廊を進んでいく。

 ここを火が舐めるのも時間の問題だ。戦闘服を着ているとはいえこの屋敷を探索できる時間は限られる。
 だから、早くあの人を見つけなければ。僕以上に時間の残されていない、かつての主人を。

 廻廊を半分ほど過ぎたあたりか。屋敷の外で燃え盛る炎に照らされ、僕は行く先に青い何かが転がっているのを見つけた。耳をすませば、それがなにやら呻いているのが分かる。

「……見つけました」

 誰に言うでもなく僕は呟く。そしてその下へと駆けた。
 かつてこの屋敷で過ごした日々を----僕の生きる意味、その根源を紐解きながら。


 ◆ ◆ ◆


 きっと僕の幼少時代は他人から見ても不幸なものだっただろう。
 流行病で親を亡くし、他に身寄りもなかった僕は大商人の屋敷に召使いとして引き取られた。地域一帯、ひいては国内随一の大富豪が住む屋敷とあって外観も内観も贅を尽くしたものだったが……良くない噂も飛び交う、そんな屋敷であった。
 何をさせられ何をされるのか。僕は不安で仕方がなく屋敷に行く前日は眠れなかったのを覚えている。

 けれど、いざ屋敷に来てみればそんなことはなかった。食事は三食、衣服は穴のない綺麗な服を与えられ、大人に暴力を振るわれることもない。

 だから、僕はすっかり安心しきっていたのだ。僕は噂の真相を知った気になっていた、ただそれだけのこと。

 仕え始めてから数日たったある日。僕はメイド長に呼ばれてとある部屋に足を踏み入れた。
「これが新しい私の召使い?」
 部屋にいたのは豊かに波打つ金色の髪に人形のように整った顔立ちの少女。さも高級そうなドレスに身を包み豪勢な椅子にゆったりと腰掛ける様は一つの絵画のようで、思わず見とれるほかなかった。
 そんな僕とは目を合わせず、まるで値踏みをするかのように僕の身体を見てから「いいわ。傍に置いてあげる」と満足そうに頷く少女。

 こうして僕は大商人の娘----リーザベル・アグレリア=ノイハイム様と出会ったのだった。



 リーザベルお嬢様の性格を簡潔に表すなら『傲岸不遜』『冷酷無残』、これに尽きた。
 世界が自分中心で回っていると疑わず思い通りにならないことは喚き散らし、不遜と暴虐の限りを尽くして相手を揺さぶる。そういうお方だった。
 不運なことに、とりわけお嬢様の攻撃性は僕に向けられていた。四つ下と比較的歳が近いうえに貧弱だった僕は格好の的だったのだろう。

「この紅茶あんたが入れたの? 不味いわね」
 時には熱いままの紅茶を掛けられ腕に火傷を負い。

「森のブドウが食べたいわ。今すぐに」
 時には夜中に起こされ森に放り出されて。
 真冬のことだったので秋の果物などあるわけがない。仕方なく代わりにリンゴといくらか花を持ち帰ると、僕は嫣然としたリーザベルお嬢様に殴り倒されリンゴと花々を口に押し込められた。堪らず僕が戻せば「私の褒美が受け取れないと?」とお嬢様は毒吐き、よく磨かれて鋭利なハイヒールで僕を何度も蹴った。

 初めは僕も助けを求めた。しかし、誰も僕を助けてはくれないと分かってからは耐えるしかなかった。辞職も試みたがお嬢様の妨害で不可能。他の召使いも、リーザベルお嬢様のご両親ですら彼女の振る舞いを咎めることはほとんどない。矛先が自分に向かないのをいいことに見て見ぬふりな彼らは僕を差し出したも同然だった。
 そんな状況をいいことに、リーザベルお嬢様の暴力は年を追うごとに酷くなる一方。いつも傷が絶えない身体を抱えつつも、僕はお嬢様の傍にいるしか生きる道はなかった。

 また、お嬢様は僕を気絶させることは決してなかった。気絶すれば水を掛けて起こし、気絶するかしないかの絶妙なところで暴力を振るい続ける。そのために僕は意識あるまま辱めに耐え続けるばかりだった。

 今でも鮮明に思いだせる、お嬢様の口癖。
「離してなんかやらないわ。だって、あんたと私は下僕と主人なのだから」
 お嬢様がこう言い放つときは決まって、絵画のような美しい笑みを湛えていたものだった。けれどもその目は冷たく、そして『僕』を見てはいなかった。……例えるなら、虫けらを見るような、玩具を見るような目。決して人間に向けるようなものではなかった。

 いつまで続くのか分からない恐怖に晒される毎日。命の灯が消えるがごとく揺らめくのを見ているだけの日々。

 しかし唐突に----階段から落ち頭を強打した僕は遂に意識を手放すことになる。十五歳の冬の出来事だった。


 ◆ ◆ ◆


 割れた窓の向こうには炎。それは夜空の星を焼き尽くすかのように煌々と天高く燃え盛っていた。
 かつては鏡のごとく磨き上げられていた大理石の床。今となっては割れているその上に倒れているのは、ぼろぼろのドレスに身を包んだ女。美しかった長い髪は焼け焦げたのか短く、手足は傷だらけだ。

 僕は構えていた銃を下ろしてそれに近づく。女はゆっくりと顔を上げたかと思うと、零れ落ちんとばかりに大きく目を見開いた。

「お久しぶりです。リーザベルお嬢様」
 目を逸らさずじっと、かつて仕えた主人を僕は見下ろす。
 ひゅうひゅうと喉を鳴らすお嬢様の瞳は絶望を映しどこまでも昏い。形のいい唇が何か紡ぐも、僕には聞き取れなかった。
 ----否。聞かずとも見れば分かる。変わり果てたお嬢様を視認した瞬間から僕の心はぞくぞくと、高揚にも似た震えを覚えていた。

「言っておきますが幽霊ではありませんよ。七年前階段から落下して入院した後、病院の計らいでそちらには知らせないまま退院したのです。そして隣国に逃げ落ちて兵士になりました。
 今や僕は故国を滅ぼすことに身を捧げた隣国の兵士。僕の役目はこの国のパイプ役を完膚なきまでに叩き潰すこと。……まぁ僕がこうするまでもなく、決着はついていたのでしょうが」
 名を捨て、母国を捨て、僕は生まれ変わった。……感情だけは捨てず心に宿したまま。

 僕は再び銃を構える。そして這って逃げようとするお嬢様の腹を踏みつけその額へ銃口を向けた。
 涙にする水分すら残っていないのだろうか。目を見開いたままお嬢様は僕に何事かを懇願するように、喉から音を発する。

 滑稽だ。僕を見て絶望の色に染まるお嬢様も、お嬢様に銃を突き付けて嗤う自分も、何もかもが。
 お嬢様。もっと僕を見るがいい。声が出せないのだろう? どれだけ叫んでもここには貴女と僕しかいない。絶望に打ちひしがれるがいい。かつて僕が味わった屈辱の片鱗でも味わえ。これでも生温いくらいだ。

 ……そう。これでも生温い。
 隣国の兵団に屋敷を攻められ家人には見捨てられ、かつての召使いに殺される。嗚呼、なんて悲劇的なお話。
 だがこんな筋書のままじゃあ、お嬢様には生温いのだ。
 ここで楽になんか死なせはしない。

「屋敷の外へ出ましょう、お嬢様」
 お嬢様を抱きかかえれば、とても軽いものだった。焼け焦げ布が減ったドレスは嵩張らないからだろう。縮こまって僕にすがる女の姿を内心あざ笑う。

 国から逃れても屋敷とお嬢様のことを思い出し魘される夜もあった。だが、お嬢様と過ごした日々は兵士として生きる僕の理由、その確固たる柱となっている。
 貴女と僕しか知らない、僕の記憶。その記憶を烈火にくべる想像をしながら、僕はお嬢様と共に外へ続く階段を下りていく。

 ----簡単に離してなんかやらない。だって貴女は僕に激情という名の感情の種、その全てを植え付けた人なのだから。

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