通路を行けば、どこでも、華やかなピンクのリボンが看板を縁取っている。

「バレンタイン、か……」

 一人ため息をつく。佳奈はぼんやりとショッピングモールの中を見渡した。どこの店も、本屋も楽器屋も化粧品屋も服屋も、バレンタインの贈り物に、という文句と共に一押しの商品を店頭に並べている。
 通路には相変わらずたくさんの人。平日だというのに、この大きな建物の中はいつも賑わっている。更に言えば、この頃はカップルが異様に多い。
 やはり、そういう時期だからか。

「……こういうの、嫌なんだよなあ」
「佳奈! 見て見て!」

 そばの店内から高い声が上がる。そちらを見れば、友人の春香が何やら商品を指差していた。

「これ、可愛いよね!」

 春香がもう一人の友人沙耶ときゃいきゃいと楽しそうに笑う。店は他にも女子高生で賑わっていた。それもそう、ここはバレンタインが近付くと特別にオープンする菓子専門店。既製品の高級チョコから手作りキットまでずらりと並んでいるのだ。
 最も、佳奈は店の外で女子高生達の笑顔をぼんやりと眺めていたのだが。

「ねえってば! 佳奈!」
「……はいはい、今行くよ」

 しかたなしに店に入る。店内に充満したチョコの臭いが鼻を突いた。
 ああ、気持ち悪い。
 少し息をつめて春香のそばに行き、指差す先を見る。
 手作りキットが並んでいる陳列棚だった。マフィンやマカロン、ショコラケーキと様々なお菓子の完成例の写真をパッケージにした箱が並んでいる。

「これこれ」
「……くま?」
「テディベアの形が作れるチョコ! ね、可愛いよね?」

 きらきらした顔で、春香がこちらを見てくる。佳奈は改めてそのキットのパッケージを眺めた。どうやら溶かしたチョコを型に流し込んで冷やすだけで良いものらしい。

「へえ」
「これをたっちゃんにあげようかなあ」
「良いんじゃない? 達也君、チョコ好きそうだし」

 少し適当に返せば、春香はうんうんと頷いた。

「そうだよねえ。あ、沙耶は?」
「あ、春香、これなら数、作れそうだよね……」

 ちょっと顔を赤らめながら、沙耶が他の箱を手に取る。トリュフのキットだった。

「部活のみんなにあげようと思って……」
「ほう。で、ちゃっかりアタックしちゃうんだー?」
「な、何言って……」

 慌てる沙耶に、春香はにやりと悪い笑みを浮かべる。

「ふっふっふー! あたし、知ってるんだからねー?」
「だから、何を……?」
「あーら、こんなところで言っちゃっても良いのかなあー?」

 ちらりとわざとらしく賑わう店内を見渡す。その様子に、沙耶が赤い顔のままわたわたと春香の制服のそでを引っ張った。沙耶が慌てる理由は、佳奈も知っている。まあ部内恋愛というやつだ。
 顔を赤らめる沙耶に、にやりと笑う春香。二人の手にあるお菓子キット。その光景に、佳奈は一人、目を細める。
 なんだか青春めいていて、眩しい。

「あ、佳奈はどうするの?」

 唐突に、春香が佳奈へと目を向けてきた。

「え?」
「バレンタイン。部活とか、誰かにやらないの?」
「あ、ああ……」
「作るのだけでも楽しいし、ほら、友チョコとかもありだし。チョコじゃなくても、ケーキとかクッキーとか」
「あっちにもいろいろあるよ? チョコ以外のものとか……」

 春香の気遣いに、沙耶が付け加えてくれる。その行為に感謝しつつ、佳奈は苦笑を浮かべて肩をすくめた。

「いや、良いよ。申し訳ないけど」

 正直――この店内の甘ったるいカカオの臭いでさえ、なかなかきついものがある。早く店から出たい気持ちの方が大きい。

「わたし外で待ってる」
「わかった」
「ごめんね、買い物に付き合わせて……」

 春香のからりとした声と沙耶の弱々しい声とに軽く手を振り、佳奈は心持ち急ぎ足で店を出た。冷たい風が通路を吹き渡っていて、あっという間に頬が冷える。人が密集していたせいか暑かったなあ、などと思いながら、通路を行く人々をかいくぐる。向かいには本屋があった。食べ物屋の向かいに本屋というのは何だか奇妙だが、そういう雑なところが、このショッピングモールの売りだったりする。
 本屋に行こう。そう思った。甘ったるいカカオの臭いよりつんとした紙の臭いの方が、佳奈の性には合っていた。
 本屋の店頭に並んだ「新刊」という陳列棚を眺める。その時だった。

「あれ、新島さん?」

 少し高い男の子の声がした。
 そちらを見ると、今さっき本屋から出てきたらしい、本屋のビニル袋を手に提げた同世代の少年が、佳奈を見て驚いたように目を丸くしていた。

「えっと……沼川君?」
「あ、覚えててくれてたんだ」

 去年の高校一年生の時一緒のクラスだっただけの彼は、そっと笑みを浮かべる。

「良かった」
「だって、まあ……出席番号、わたしのすぐ後ろだったし」
「そっか、そうだったね」

 沼川はまさに教室の隅っこで本を読んでいそうな、いわゆる「草食系男子」だった。大人しく、授業中にふざけたり意見を言ったりはしない、しかし陰気なわけでもなく、誰かに特に好かれたり嫌われたりすることのない生徒だったと記憶している。
 佳奈も特に親しくしてはいなかった。ただ、出席番号や近く、それで席が近くだったため、話を全くしなかったわけでもない。

「えっと……」
「ああ、ごめんね、いきなり話しかけちゃって」

 戸惑う佳奈に、沼川はにこりと笑う。意外によくしゃべるのだなあ、と佳奈は心の中で感嘆した。

「ううん、大丈夫。……買い物?」
「うん。欲しい本があって。新島さんは?」
「友達の付き添い。バレンタインの準備だって」

 ちらりと店の方を見遣って言えば、沼川は、ああ、と納得したかのように声を漏らした。

「新島さんはもう買ったの?」
「バレンタインの物? ううん、全然。何も買わないよ」
「そうなんだ」
「……苦手でさ」
「え?」
「ああいう、イベント」

 自嘲気味に肩をすくめる。

「チョコが嫌いってのもあるけど、なんか、こう、強制的じゃない? 誰もがチョコが好き、嫌いな人は可哀想、女の子は誰かのために何かを作る、それをしないのはリア充じゃない……みたいな、さ」

 バレンタインを否定するわけじゃない。その日を楽しみに、いろいろ考えてきゃいきゃいしている友達の様子を見ているのは楽しかったし、眩しかった。

「……みんな、人生を楽しんでいるみたいでうらやましいよ。わたしは性格がひねくれてるから、そういうキマリに従うのがすごく嫌で、気持ち悪くて……まあ、渡したいと思う相手もいないし」
「……新島さんは、人生を楽しんでないの?」

 沼川のぽつりとした問いに、そうだなあ、と笑う。

「わからないよ。ああいう風に、当たり前の事を純粋に楽しめたら良いなあとは思うけど」
「みんなと同じことを同じように楽しむのが、人生を楽しむこととイコールっていうのは、違うと思うよ」
「え?」
「ちょっと哲学的な話だけど」

 沼川が、少し目を逸らす。しかしそれは一瞬で、すぐに佳奈を見据えてきた。
 真っ直ぐな視線が佳奈の目を捉える。

「済んだことをくよくよしない、めったに怒らない、いつも現在を楽しむ、人を憎まない、そして、未来を神にまかせる。この五つが、処世のおきてなんだって」
「処世の、おきて……?」
「ゲーテっていう詩人の言葉らしくて。心地の良い生活をするための云々、だった気がする。あまりはっきりとは覚えてないけど。で、新島さんの言う『当たり前のことをみんなと一緒に純粋に楽しむ』ってのは、この五つの中に入ってないでしょう?」

 ってことは、と彼は少し得意げに目を輝かせた。

「それ、新島さんの楽しい人生のためには必要なもの、ってわけじゃないんだよ、きっと」
「え……」
「必要がないなら、無理してそうしたいと思わなくても良いんじゃない? 誰かに意見を合わせるとか、自分のしたくないことをしようと努力するとか、そういうのはこの五つの中には入ってないわけだし」

 必要がないこと。
 本当にそうなのだろうか。
 友達と楽しくバレンタインの話ができないのに。一緒に作ろうと言い合う友達のあの笑顔に、一人取り残されたような気持ちになるのに。

「……そう、なのかなあ」
「まあ百パーセントそうだとは限らないよ。ゲーテは昔の人だし、日本人じゃないし、第一君じゃない。でも考えるきっかけにはなると思うよ。――あ、もし良かったら、これ」

 そう言って、沼川は本屋のロゴが入ったビニル袋から一冊の本を取り出した。ブックカバーがついていて、何の本かはわからない。
 それをずいっと佳奈に差し出してくる。

「これ。確かその詩は一番最後の章にあったと思う」
「え……?」
「興味なかったら、あとで学校で返してくれれば良いよ。ものは試しだよ。いろいろ試して、無理せずに楽しめるものを見つければ良い」

 おずおずと受け取った佳奈に、沼川は、それじゃ、と軽く別れを告げて去っていった。何だか押しつけられたようである。そう思いつつも、佳奈は本を広げた。

「ゲーテ詩集……」

 少女漫画的な小説が好きだった佳奈には、あまり縁のなかった本だ。正直まともに中身を見たことはない。そもそもゲーテという人名に聞き覚えがほとんどなかった。

「……ものは試し、か」

 駄目なら、無理をせず沼川に返せば良いのだから、気が楽なものである。

「……あとで読んでみよう」

 一人呟き、本を胸に抱く。そして向かいの菓子屋を見た。そろそろ二人の買い物は終わっているだろうか。
 そこで、ふと気付いた。

「……わたし、バレンタイン近いのに男の子からもらい物しちゃったんだ。逆だなあ」

 しばし考え、まあ良いか、と一人頷く。
 佳奈の楽しい人生には、バレンタインのキマリに無理矢理従う必要は、おそらくないのだから。
 
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