付き合い始めて三ヶ月が経っていた。それが「まだ」三ヶ月なのか「もう」三ヶ月なのか、俺だけでは判断がつかない。

「いらっしゃいませ」

 きちんと文字通りに発音された「いらっしゃいませ」は、その店の格式高さを物語る。自分には不釣り合いな空間に少し怖じ気づく。

「予約していた高城です」
「お待ちしておりました、高城様。お席にご案内いたします」

 彼女の方を見ると、彼女も俺の方を見ていた。前を向き直って照れたようにはにかむ、犬のような愛らしさに思わず微笑み返す。
 三ヶ月。100日にも満たない、不思議な区切りだ。




 ビルの最上階のレストランは、当然のことながら夜景を売りにしている。均一に並ぶ小さな窓をランダムに灯す光の中に、俺は先週の残業を思い出す。

「素敵なホワイトデーをありがとうございます。こういうところは慣れないので、少し緊張しますけど……」

 今日はホワイトデーだった。ちょうど三ヶ月前に俺たちは付き合うことになり、その二ヶ月後(つまり今日から一ヶ月前)に彼女からお手製の夕食とチョコレートを貰った。そして今日俺は彼女を招待して高級料理店の予約席に腰掛けている。チョコレートはなかなか上品な味に仕上がっていた。彼女は菓子を作るのが趣味らしい。

「本日のメインディッシュ、豚肉の赤ワインビネガーソースでございます」
「わああ、いい香り!」

 ーーあのっ、今、お付き合いしてる人って、いますか……?

 一ヶ月前を思い出そうとすると、あの子のことを思い出さずにはいられない。目の前の彼女とは真逆、地味なピンでとめられた前髪の下の額がつるりと白いのが第一印象だった。

 ーーああ、まあ、いるけど。

 繊細に積まれたメインディッシュのソテーをナイフで切り、あのときの彼女の表情を思い出す。化粧は薄く、あどけなさの残る表情。真面目な仕事ぶりは社内でも評判だった。

 ーーそう、ですか。

 緊張な面持ちから一転、その言葉とともにぐしゃりと現れたあの反応。俺はそれが今でも気がかりで仕方がなかった。あれは一体どんな表情だったのだろう。

「美味しい……。こんなにお肉って柔らかくなるんだあ」

 こういう少しリッチなところでも、家の近くの居酒屋でも、目の前の彼女はとろんとした魅力的な笑顔で美味しい≠連呼する。これくらい分かりやすい表情だと、鈍な俺でも分かりやすい。
 前菜からデザートまで料理は味にも見た目にも組み合わせにも抜け目なく、時間はあっという間に過ぎていく。




 彼女を自宅まで車で送る。メインディッシュに赤ワインが使われてたみたいだけど、たぶんそれで酒気帯び運転になることはないだろうと踏んでいるけど少し心配だ。
 別れ際、するりと背中に回った両手がぎゅっと俺の背広を軽く掴むように握る。

「高城さん……素敵なホワイトデーをありがとうございます」

 いつもなら胸板あたりに位置する額をすりすりとすりつけるのが彼女のこういうときの癖なのにそうしないのは、今日は特に整ったメイクをしているからだと思った。

「でも、少し上の空じゃありませんでしたか?」

 思いがけない一言に、体の筋肉が一瞬こわばった。抱きつく彼女にそれが分かってしまい、ふふ、と彼女は小さく笑った。

「気にしてません。だってまだ、三ヶ月です。今だけは高城さんを独り占めできるんです、それ以上のことを求めたら、欲張りですよね」

 ただ、と彼女は声をひそめて続けた。

「ただ……一方向の独り占めで幸せになれるほど、私も子どもじゃありませ……」

 濃いピンクが鮮やかな、震える唇に顔を近づけて軽く触れる。丁寧に塗られたグロスが不思議な密着感を醸し出す。

「俺も努力する。だからもう少し待ってくれると嬉しい」

 本心だった。でも、今のキスはフレンチキスとはいえどあまりに軽いような感じがした。例えるなら、契約のときに押す判子とさして変わらない。
 彼女はにっこりと微笑んで再び強く俺にしがみついた。おでこをすりすりとすり寄せる様はあまりにかわいらしかった。男心をくすぐるその完璧なかわいらしさに、僕はさっき食べたフルコースを思い出す。初めて食べたのはいい経験になった。でも、やっぱりというか、俺は小さな居酒屋くらいが性に合うみたいだ。

「高城さん……」

 もう一度口づけを交わして、彼女は耳元で「今度から、下の名前で呼べるように努力します」と囁いた。


【了】


あとがき

新緑茂る初夏の中、ホワイトデー企画に手を出しました。というか、未完成のまま放っておいて、余力のある今完成させました(白目)
これから好きになるっていう約束でお付き合いを始めた彼女と順調な交際の中、玉砕した(たぶん)職場の後輩の女の子が気になるホワイトデーのお話でした。甘めですが、これくらい甘々なのも大好物です。
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