今様歌物語
〜ここにいたい〜
後編 03
彼の気持ちが、痛いほどよく分かった。声にならない歌が、ただ砂塵のように心の中で降り積もることの苦しさを、私は知っていた。
「でもあなたは、作品を完成させた。『百の修飾より、君に届く一つの言葉を』という題名をつけたのは、他ならぬあなたでしょう」
灯火野くんがポケットをまさぐる気配がして、頬の熱さにふと我に返る。
「はい、これ……」
差し出されたハンカチを断って、私は両袖でそれを拭った。真鍋さんに出会ったあの日が、一年という月日を駆け上って今に蘇ったみたい。
「彼女を失っても、作品を最後まで完結させてあなたはコンクールに応募した。あなたの小説を読む不特定多数の中に、彼女がいることに一縷の望みを託したからではないのですか?」
「もう、やめなさい」
背後から伸びた影が、私たちのテーブルに注ぐ照明を妨げ少し暗くした。その透き通った声、振り返ればすらりと細いからだ、綺麗に揃った唇、切れ長な目。サークル長の石川さん。
「瞬、私がいなければいいんでしょう」
「えっ」
灯火野くんが驚きに声を上げた。私は、声さえ出なかった。
今、なんて……?
「『百の修飾より、君に届く一つの言葉を』……。これ、読んだわ。何度も」
何度も、ともう一度、消え入るような声で石川さんは呟いた。
「それを読んだ私の友達が、沢山泣いたって言った。こんな恋をしたいって、こんな風に誰かを一途に好きになってみたいって言って、私の前でまた泣いた。
やっぱり心底悔しかったの。あなたの言葉が、私以外の女の心を揺り動かしたっていう事実が」
気が狂うかと思った、と口を両手で塞いで石川さんが声を詰まらせた。
「本当に何度も読んだ。そして何度も心を打たれた。そんなはずないって、私だけが感動する話じゃなきゃ嫌だって……意地になってた。
でも、あなたのことを思えば思うほど、私はただの一人の読者に過ぎなくて、同時に一人の恋する女でしかないことを思い知らされる。あなたにとって私はそのどちらなのか、聞くのが怖かった」
手で覆われてない部分の顔は歪めることなく、ただ一粒二粒と涙を流す石川さんの横顔はとても美しくて、石川さんという人が身にまとった強さの欠片を見た気がした。
『先輩、』
小玉くんが声をかけてくれたあの日、彼が最後に付け足したささやかなお願いが胸に刺さる。
『ここで初めて会った人をはっづ……殴るなんて大変な奴が来たと俺は思いました。でも、先輩の話聞いてるとなんかそういうアブナイ奴じゃないような気がしてきたんす。もしかしたらあの二人、前から知り合いだったんじゃないっすか。
だとしたら、あいつがサークルに入ると、そういうゴタゴタを抱えることになっちゃわないっすか』
言ってから、あ、すみません……と彼は口をつぐんだ。出しゃばりすぎたと思ったのだろう。しかし彼の指摘は鋭い。
『そんなん難しいとは分かってるんすけど……俺は、和やかなサークルの方が嬉しいっす。あの空間で先輩達ともっと話したいっす』
そんじゃ、また、と小玉くんはその日部室を後にした。
部員のため、サークルのため、私たちはきっと何か出来ると思っていた。
「萌江……先輩、俺はまだ気持ちに整理がつかない。でも、あなたを追いかけてこの大学のこのサークルに来たわけでもないんだ。本当に驚いた。自己紹介のときに指名されたときは、胸がいろんな思いで潰れそうになって、それで……」
でも誰かと誰かを繋げるには、言葉ではあまりにも足りないのだと、改めて思い知らされる。
「また……落ち着いたらまた、話したい」
ぺこりと私たちにも一礼を残して、速水くんは早足で去っていった。冷たい飲み物で結露したように、飲み干されたコーヒーカップの周りには幾つものしずくのこぼれた跡。カップはそれに濡れながら、それでもテーブルの上で静かにたたずんでいるだけだった。
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