今様歌物語
〜ここにいたい〜

後編 02


 それからさらに一週間の時間が流れた。講義室の後ろの方から談笑の声が小さくなっていく。

「先輩、お話が」

 思い詰めた表情、その凛々しさには目を見張るものがあった。

「よく来たね、速水くん」

 微笑んで席を立つ灯火野くん。私は視界の隅で心配そうにこちらを見つめる小玉くんの姿を見た。





 付属図書館一階の喫茶店の角の席が空いていた。私は三人分のオーダーをカウンターに取りにいき、お盆の上の三つのカップをテーブルに置いた。二つのコーヒーと一つのココア。灯火野くんがカップを受け取るときに苦笑いしたのが少し可笑しかった。

 速水くんは重い口を開き、まずはコーヒーを一口。口の中でゆっくり味わってから喉に静かに通して、フッと息を吐いて彼は話を始めた。

「俺は高校の時、文芸クラブに所属していました。部員がいたりいなかったりで功績もなく、部活として認められさえしない集団でした。俺が入部したときが一番部員が少なくて、俺と、二つ上の先輩の二人だったんです。女の人と二人で部活をするなんて、もう長続きしないと確信していました。

『見せて、あなたの作品』

 そんな中、彼女が俺にかけた第一声がそれでした。あまり記憶にありませんが、きっと特になにも考えないで返事をして、次の日印刷した原稿を彼女に渡したんだと思います」

 引き込まれる。この引力は彼の思いの大きさなのだろうか。

「『面白いじゃない。また次の作品、書けたら教えてね』

 それから彼女はいつも俺の小説を一番に読んでくれました。知り合いで彼女以上の読書家を、俺は今も知りません。俺のへたくそな小説を、彼女は一文字もぞんざいにすることなく読んでくれました。『君の小説を一番に読めるなんて、こんな美味しいことってないでしょ』って言ってくれました」

 嬉しかった……その声色に、どこか暖かいものが含まれる。

「俺たちが付き合うようになるまでに、長い時間は必要ありませんでした。部員の少ないのが逆に、彼女の引退の時期をうやむやにしてくれて好都合でした。

『あなたの中にある語彙は限られてる。それを余すことなく存分に出せたら、きっともっと面白くなると思うの』

 彼女の指摘はいつも適切でした。俺は、彼女を満足させられる小説が書きたかったんです。『完璧。すごいね』っていう一言が聞けるなら、どんなに複雑な話でもどんなに長い話でも、書くことは苦ではありませんでした。ああいう日々を幸せって言うんだろうなって今は思いますね」

 口が渇いてきたのか、カップの半分くらいを一気に口に含む。挟む言葉がなかった。私たちが立ち入れないほど、彼の声で語られる思い出は美しかった。

「だからこそ、どうしても彼女を唸らせる小説が書きたかったんです。ちょうど彼女も受験期だったし、合格祝いに間に合うように一番の作品を仕上げたかった。時間が惜しくて彼女のことも気遣うようになって、毎日のちょっとしたやり取りが一日おきになり週に一度になり、言葉は簡潔になり似たような言い回しの繰り返しになっていきました。

『私のためだけの言葉に、瞬の気持ちを感じたかった』

 合格発表の日、彼女のそのメールを最後に彼女とは音信不通になり、どこの大学に進学したかも知らないままでした」

 彼はそこで言葉を切る。
 おそらく彼女は、彼が心血を注いで考える言葉の一つ一つが自分になかなか向けられず、小説に注がれる情熱のこもった言葉の数々が羨ましかったのだろう。私のためだけの言葉≠サの心は――私はあなたの小説に嫉妬している=B

「俺の中で女といったら彼女しかいませんでした。文章を追う彼女のまなざしが好きでした。彼女の声に俺の書いた言葉が乗せられただけで、その心地よさに背筋がゾクゾクしました。……没頭してた。生身の彼女を小説を通して感じる、その複雑で単純な行為はたまらなく楽しかったのです。彼女を感じたいからこそ、小説に没頭していたんです。……なんて、馬鹿だったのでしょうね。

 作品はもうすぐ完成と言うところまで来ていました。でもあの瞬間から、俺は小説を書く意味を失って。本棚に並んでいるような不特定多数のための小説なんて、俺にとっては何の意味も持ちませんから」

『そうだ、忘れないうちに言っておくよ。速水瞬の作品についていろいろ調べてみたんだけどさ、』

 私の記憶からすっと光が差すように蘇るのは、岡田さんの声だった。

「空の荷物も、届ける先のない荷物も、結局は捨てられてしまうんです」

『選評者が辛口でな。その人の評価が低かったのが影響して、一番いい賞は逃したらしい。「高校生らしい等身大で爽やかな表現が良い。しかしハッピーエンドが望ましい。これからの成長に期待」って書いてあった』

 二人を決定的に引き裂いたのは、その賞だったに違いない、と確信に近い何かを得た。彼女がいなくなってから彼は偉大な賞を取ってしまい、彼の小説を書く意味はさらなる闇に迷い込む。磨き続けてきたその技術、一番に褒めてくれる人はもう彼の元を離れてしまっていたのだから。

「『百の修飾より、君に届く一つの言葉を』か……」

 灯火野くんが納得したように呟く。それは、他の誰でもない彼女へのメッセージであることを端的に表していた。

「あの頃の小説に対する思いが一番高尚で、人間の営みに限りなく近いものだった。でも、彼女を失ってしまった俺の気持ちは、俺自身は、どこに向かって吐き出せばいいんだ」

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