今様歌物語
〜ここにいたい〜
中編 03
走って走って、見覚えのある看板に辿り着いた。たった一度来ただけの、曲がりくねった道の先にある喫茶店、『三百六十五面体』。扉を押すと、控えめな鐘の音がちりりん、と鳴る。ずりずりと筋肉のこわばった足を引きずりながらこの前座ったテーブル席に座ると、少しだけ落ち着くような気がした。代わりに、ツーンと鼻が痛くなって涙がこぼれる。熱くて頬が火傷しそうな涙だった。
コト、と目の前にマグカップが置かれた。はっと見上げると表情のないマスターがお盆を持って立っている。鼻水をティッシュで拭いながら、私は鞄の中をまさぐる。
「あ、いま、お金」
「風よりも火だね=c…」
上の句とともに「サービスです」と一言言い残して、マスターは店の奥に戻る。香りで、甘すぎないココアだというのが分かった。マグカップを両手で包んで、口を付ける。
「あつ……」
ちびりちびりとすすっているうちに、ゆっくりと時間が流れて涙も乾いていった。日が落ちかけるのを見届けている間に、真鍋さんがドアの鐘を鳴らした。
「お気に召してくれたようで、嬉しいな」
いつもの笑顔。でも少し息があがっている。……走って、来たのかな。
「あの、ごめんなさい」
「いやあ、謝らなくてもいいじゃない。別に約束したわけじゃないんだからさ」
今日はお冷をください、とマスターに一声かけてから真鍋さんが私の前に座った。先週のことが滲んだ景色の中で蘇っているのだ。
「……私、やっぱり、変じゃないですか?」
「どうして?」
どうしてって、どうして聞くのかと私が聞きたいくらいだった。
「自己紹介でいきなり歌を詠み始めるし、それから一度もサークルに来てないし。……やっぱり歌が好きなんて、どんなに文学が好きな人たちが集まったって少数派なんですよ。変な目で見られたって、当然なんです……」
変な目で見られた方が、変じゃない。なんかその言葉まわしがやけに滑稽だ。まるで今の私のよう。
「残念だな、結局歌を詠むことを変だと思ってるのは、雨掛さん自身なんじゃないか」
びくり、と体を震わす一言だった。
「どうして自信を持たないんだよ。先週、あれだけ歌に対して熱く語ってくれた君は、どこにいっちゃったのさ。みんなが知らない世界を、みんなが持っていない手法で語ることが出来るって、どうして胸を張っていられないんだ」
「違います……!」
そんな風に言わないで、私は見せびらかす歌を詠みたいんじゃ、ない。
「私はただ、歌が好きなだけなんです。好きだから、大切にしたいから、傷つけたくないから……」
だから、否定されるのが怖かった。孤立してしまったら、私の力だけではあまりに無力だから。私のせいで、私の一番好きなものが、潰れて無くなってしまうような気がしていたのだ。
真鍋さんのお冷の氷がからりと溶けた。私はたださめざめと涙をこぼしては拭っている。
「雨掛さんは、僕らにとって貴重な存在だと僕は思う。君の歌を、歌に対する思いを理解してくれる人がいてくれたとしたら、それは君自身の理解者と言って言いすぎじゃないと思わない?」
僕ら=\―その三音が私の心にじわりとしみ込んで暖かい。
「朔風の強い折には戸のうちへ貴女の棲家のあかしは此処に
君の気持ちの居場所がここに無いというのなら、その時が来るまでは僕がその居場所になるよ。君がどんな歌を詠むか、僕はその場所で聞いていたい」
歌は誰かに聞いてもらって初めて歌という文学として成り立つんだと、知ってはいたけれどどうしても出来なかった。言葉の羅列以上のものにいつまでもならなかった私の歌を、聞きたいと言ってくれる人が現れた。
「真鍋、さ……」
言葉にならない気持ちは言葉の代わりに涙になって、こんなに私の中で溜まっていたのかと思わんばかりに流れ出す。珍しいんじゃなく、貴重なのだと。こんな私にも、側にいると言ってくれる人がいるんだと。固く閉ざされていたものがみしみしと音を立てて壊れていく。
「また来週、会おう」
私が落ち着くのをゆっくりと待って、真鍋さんが明るい声でそう言ってくれた。
「来週の活動日、部室に来なよ。僕も、サトルも待ってるよ」
「サトル?」
「サークル長の岡田哲。彼は歌は得意じゃないけど、話せばすごく面白いと思うよ」
そんでもって、俺の親友、と真鍋さんは笑う。私は内心で、あの漢字ははサトルと読むのか、と入部時に登録したアドレス帳を思い返す。
「そしてまた来週、『また来週会おう』って言わせてよ」
それにしても真鍋さんはよく笑う人だ。少しかすれた声で「はい」と返事した私のその口元も、真鍋さんには敵わないけれど、気持ちよく笑えてたんじゃないかと思う。
【後編に続く】
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