今様歌物語
〜ここにいたい〜
中編 02
くねくねと角を曲がっていくうちに、もと来た方向が分からなくなってしまった。道の突き当たりに至り、小さな看板には『三百六十五面体』とある。真鍋さんはにこりと一つ笑って、颯爽と店の扉を押す。なるほど、ここのマスターは俵万智さんが好きなのかな? ちりり、と控えめなベルが私たちの入店を店内に知らせた。
「小さい路地から入って幾つか道を曲がらないとここには着けないからね、穴場の喫茶店なんだよ。雨掛さんは何にする? 甘いものもあるよ」
にこっと笑うと目が無くなる。人の良さが表情に出ていて、素敵だと思った。
「えっと、じゃあ、モカください。ブラックで」
「……かっこいいね、雨掛さん」
冷たくない苦笑いは、にがいと言うにはあまりに忍びないほどだった。なんてカフェモカみたいな人だろう。
「じゃあ僕も同じのにしよう」
注文を聞いて、マスターは無愛想にもコーヒーを作り始める。
「歌を詠むのは好き?」
頬杖をついて、「コーヒーはブラックが好き?」と同じような調子で、真鍋さんはそう聞いてきた。ニコニコと笑う細いまなざしは、私の肩の筋肉をほぐしてくれた。
「好きか嫌いかで言えば、好きです。でなければ、常に生活と一緒にして考えたりはしませんから」
声に出してしまってから、こんなことを、他の誰かに話したことがあっただろうかとふと考えた。
「散文は結局、主語とか述語とか、文章として成立する日本語の要素の組み合わせでしか何かを表現することが出来なくて、長さも韻も規定はないのにどこか不自由だと思うんです。羽はあって飛べるけれど、実は大きな鳥かごの中に入ってるみたい。鳥かごの端から端まで飛んで、また往復して、他の鳥達もそれを見て真似をしてるだけのよう。違うのは羽の色や体の形といった、その鳥自身の表面的な何かでしかないような気がしてならないんです」
コーヒーカップが二つ、テーブルに並べられた。自分側に置かれた片方に真鍋さんが少しだけ口を付けて、聞いてきた。
「雨掛さんにとって、歌はそうじゃない、ってこと?」
私もそれに倣ってカップを持ち上げ、ふうと吹いてから少しすする。
世の中にはきっと、言葉にしていいことと悪いことがある。こんなこと言っていいのかどうか……。
少し弱気になって、おこがましいかも、しれませんけど、と付け足しておくことを私は忘れなかった。
「歴史的に見ても、歌は散文よりも早くに誕生しました。どうして歌が珍しいものになってしまったのか、どうして歌を珍しいものと捉えられてしまうのか、私は不思議で、辛くて、仕方がありません」
兄弟姉妹がおらず、家族でただ一人歌にのめり込んだ私が、こんなことを声に出して誰かに伝える日が来るとは思わなかった。中学時代から歌と言うものに触れてはいたけど、周囲の興味はそれよりももっと刹那的で眩しく、しかしあまりにも脆いものに注がれていた。話が合う友人は、かつて一人もいなかった。
「あの……他のこと、聞かないんですか?」
「何を?」
本当に不思議そうな顔をしている。
「その……どうして、サークルに来ないのか、とか」
「別に、絶対毎回来なきゃいけないサークルじゃないもの。来たくなったときに来ればいいよ」
それにしても、と真鍋さんは窓の外を見て呟く。
「雨掛さんと話をするのは、とても楽しいね」
つられて私も窓の外に目を向けた。太陽が……沈んでいる。
「す、すみませんっ。つい話し込んじゃって……ああ、もうこんな時間」
くすくすと真鍋さんに笑われていることも気にならないほど、慌ててコーヒー代を払って私はお店を後にした。ほんの数時間前にどれほど重い気持ちでこの道を歩いていたかを忘れるほどだった。
『三百六十五面体』で真鍋さんと話をしてから、一週間は瞬く間に過ぎていた。
「はぁ……」
集合時間からはもう五分も経っている。私はその間、部室に行くかどうか迷い、扉の前に立っても入るかどうか迷い、廊下を静かに行ったり来たりを繰り返して過ごしていた。入りたい。ここに入ればきっと、先週みたいな話がもっといろんな人と出来るのかもしれない。
扉に手をかけた、その瞬間、私の両耳が襲われた。
ひそひそ、ひそひそ……。
「……!」
ドクドクと飛ぶように高まる心臓に、冷や汗がじわりとにじむ。
がらりと扉を開けるところを想像する。誰かが私を見つける。自己紹介で歌だけ詠んだ子だ……ひそひそ、ひそひそ。みんなの目が一点、私に集まる。ひそひそひそひそ。
想像は止まらない。
「やっぱり、いやだ……」
開けられない扉は私の背から遠ざかっていく。私はまた、がむしゃらに走る。
(ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい……)
風が冷たい。春は、私には、まだ来ない。
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