自分という終着駅
06
 湯上がり、宿の外の玄関前階段に腰掛けて夏の夜の空気に当たっていた。今頃仁岡は駒浦と接触して何かしら話しているのだろうか。何を話したって、今の駒浦なら問題ないだろう。あの二人の関係がこじれることは、少なくともないはずだ。
 そしてそんな二人を、俺が邪魔する義理もない。だからこうして夜風と戯れているというわけだ。

「ここにいたんだ。探したよ」

 ひょいっと柚希が俺の前に現れた。温泉の湯気と石鹸の甘い香りがする。

「ああ、ちょっと風が心地よくて」

 そうみたいね、と柚希が俺の隣に座り込んだ。虫の声だけを静かに二人で聞く。
 と思ったら、急に柚希はすっと立ち上がった。

「さっき見つけたとっておきの場所、教えてあげる」

 目も合わせずにそう呟いて俺の手をぐいと引っ張って歩き出す柚希の足取りが、いつになく勇ましい……気のせいだろうか?



 連れて行かれた場所は、先ほどの祭りがあった神社の裏手にあった。そこは月の光を浴びて光る夜露が珠玉のように散らばる高原。原っぱは途中で緩やかになくなり、眼下に広がる住宅地からはあたたかな暮らしの明かりがもれている。空を仰げば、星空が俺たちを包み込んでいるような、そんな感覚にとらわれた。二人だけに与えられた夜が今まさにここに存在していて、それはあまりに静かすぎて耳が痛いほどだった。
 何の前触れもなく、柚希が草原に体を横たえた。

「こうしてみて。空が、とても綺麗だから」

 俺も彼女の隣で彼女に習う。視界が星空のキャンパスで埋め尽くされる。

「本当だ。星って、こんなに沢山あったんだ。知らなかった」
「ここの空気が澄んでいるからね。……でも私はあんまり視力がよくないから、望道よりも見えてる星、少ないかも」

 柚希は本当に楽しそうに笑った。なんだそれ、と俺もつられて笑った。
 ねえ、と柚希がまた俺を呼ぶ。柚希の方を見ると、彼女は右手を空高く伸ばしていた。

「……不思議」

 俺も真似してみる。柚希よりは、空に近いところに手のひらがあるはずだ。
 柚希が語り出すとき、周囲はいつも静かだ。

「こうやってどんなに一生懸命腕を伸ばしても、手と空とでは目のピントが合わないでしょう?この腕の短さといったら、この世の何物も掴めないような、そんな気になるの」
「それは……星空が、遠すぎるんだ」

 柚希の、息苦しい声を慰めるように、俺は話しかける。

「ええ、そうね……小さいのね、私たちって。
 私たちは星を見つけることができるけど、星はきっと私たちを見つけることなんてできない。それは星が、私たちなんかよりもずっと大きくて、輝いているからよ」

 疲れたのか、柚希は伸ばしていた腕をゆっくりと降ろして、長い息をついた。

「私たちは小さいだけじゃない。星や宇宙に比べたら、私たち人間の一生は地球の息吹なんかよりもずっと短くて、儚い存在なのよね」

 柚希がぎゅっと自分の腕を抱えた。

「誕生日が何?」

 悲痛な声は続く。それはまさに、『告白』だった。

「私が生まれた日から、地球が太陽の周りを整数倍回廻った日を、私のために祝ってどうするの。私なんかを祝うくらいなら、地球の誕生と今日までの存在の奇跡を毎日祝うべきじゃない。
 誕生日なんて要らない。誕生日なんて嫌い。嬉しくもないし、祝ってほしくもない……」

 その細い体に、悲しみを無理矢理押し込んだような彼女の静かな声が、星空の海の中で小さく波打つ。
 仁岡から駒浦の過去のひとかけらを聞いたことを思い出した。柚希の過去にいったい何があったのか、彼女を傷つけ一年間縛り付けたものがいったいなんなのか、俺はまだ何も知らない。知らないけれど、彼女が自ら口を開くまでは、知らなくてもいいと思っている。それは決して、どうでもいいと思っている訳ではなくただ、無理をして柚希の口を開かせ、無理をして聞く話ではないと思うからだ。彼女の話を聞いたところで、多分俺は一緒に傷つくことしかできない。それは全く、彼女の心の救いにはなってはいない。
 柚希は溢れる悲しみをなかなか制御できないようでいた。



 ……違う、違うんだ。俺は、柚希のそんな顔を見たいんじゃない。そんな暗いことを考えさせるために、この旅行を企画したのでもない。俺は祈るような思いで口を開いた。

「存在はすべての事物のいわば定義みたいなもので、定義とはつまり、真実だ」

 駒浦は俺に、こう言ったことがある。

『何か考えるときのその、全世界の不幸を背負ったような顔は今すぐにでもやめるんだね。四ノ倉さんを見習え』

 そのとき俺は、これは駒浦らしくない、人間観察がなっていないと思った。確かに俺の顔は、思考中でもそうでなくても不幸な顔をしているかもしれない。しかし柚希は、基本的に表情に乏しい。彼女の喜びは、だからこそ表に現れた時に価値があり、純粋なんだ。

「今世界にある全てのものが存在するから、今の世界があるんだ。ということは、『在る』ことそのものが世界の定義である……そうだろ?」

 そして柚希は、悲しみさえも自分の中に閉じ込めてしまう。表情に見せないだけで、苦しい思いをしている。俺らよりも一年、特別に長く生きているだけ多く、実は俺たちよりも辛い思いをしているに違いない。表情に表れない分、彼女の心の中に抑圧されている分、もしかしたらもっと、傷ついているのかもしれないのだ。

「俺らは、存在していていいんだよ。俺らが存在してるから、今の世界が定義されている。俺たちは小さいながらも世界の要素で、世界にとって必要な存在なんだ。俺たちは、世界の『真実』になれるんだ」

 俺は、大切な人の事くらい、自分の手で守ってあげたいんだろう?
 そんな不安定なところで苦しむ柚希の近くで、なに寝ぼけた顔してんだよ?

「世界が存在していることが絶対的真理である限り、俺たちの存在は必然的に、世界が存在するための必要で十分な要素だ。俺たちが世界を必要としていると同時に、世界は俺たちを必要としているんだ。俺たちは生きてていい。『存在』していて、いいんだよ。……なあ、そう思うことにしようよ。だから――」

 今日ほど彼女が涙を流すことに耐えられない日はないと、思った。

「そんな顔、しないでくれよ」



 彼女の腕を引き上げて起こして、目の周りの冷たくなったところを指先で優しく拭った。

「お前が今でも辛い思いをしてんのは、分かってる。でもいつまでもそうだとさ、俺、何のためにお前の傍にいんのかわかんねえ。
 笑ってくれないか? 俺、笑ってる柚希が一番好きだ。
 辛ければ、泣けばいい。苦しければ、甘えればいい。でも、最後にはお前が笑ってくれていないと、俺が辛いんだ」

 こんな言い方をするのは、初めてだった。生きることを論じ愛を論じ思いを論じてもなお、俺たちには語り尽くせていないものがあった――それが「存在」だったんだ。生きていたいと言った。確かなもので結ばれたいと思った。守りたいと約束した。そして俺はまだ、「一緒にいたい」と言ってはいない。
 ……このタイミングで渡すのは、不自然だろうか? ここで「それ」の力に頼るのはまずいだろうか?袋の感触を確かめて、思い切って彼女の手に「それ」を乗せた。

「タイミング変だけど……誕生日、おめでとう」

 安っぽい紙袋は、少し触れただけで雑で大きな音がした。

「どうしたの、これ……?」

 目を大きく見開いた柚希の開いた手のひらに星が散った。小さな小さなプラネタリウムのようなモニュメント。

「ほら、そこの祭りの屋台で買ったんだ。……綺麗だろ」

 夏の夜の風が、二人の頭上を駆け抜けた。密度の小さい柚希の髪が風の小川に流され、痛ましい悲しみからこぼれる涙もそれに運ばれ草原に溶けこんでゆく。

「うん。すごく、きれい……」

 その小さな星空を、優しく胸に抱える柚希。数秒間そうしていたかと思えば、再び思い出したように本物の星空と見比べる。なんの言葉も発さずにただそう、繰り返していた。その無音の時間は先ほどとは打って変わって柔らかい安心感に包まれていて、いつもの日常に浸るかのように俺は芝の上であぐらをかいた。
 昨日も訪れた夜が今日もこうして俺らが今いる世界にやってきた。暗闇の中を二人きりで過ごすのは初めてだ。
これが嬉しくないはずがない。ゴロリと芝に横たわって目を閉じれば、柚希の気配を感じる。耳を澄ませば、柚希の息づかいが聞こえる。俺の左側にいる柚希の全てを今、左半身の全神経で感じているような気がしていた。
 “彼女の温もりが手に入るなら”。俺はしがない高校生男子の一人にすぎず、こんな状況にあったらついぞそんなことも頭によぎる。彼女のことを考えると、一ミリの距離さえ遠すぎる。手を伸ばせば、触れられる――いつだってそれくらいの距離に、柚希はいてくれた。その細くて軽い体を、思いのままに強く抱き寄せたことも、あるけれど。
 ……これ以上考えるのは、もうやめよう。何というか、紳士じゃない。
 望道、と柚希が俺を呼んだ。

「何だ?」

 目を開き体を起こすと、左側の、思ったよりも近い距離に柚希がいて驚いた。プレゼントはもう、袋にしまわれていた。
 起こした俺の左肩に、彼女が力なく頭をもたれかけた。彼女の香りがふわりと香しく鼻をくすぐった。心臓が、一足飛びに跳ね上がる。

「私がこの場所を見つけたとき、一番最初に思ったこと、分かる?」

 体重をあずけたまま、柚希が少しいたずらっぽい口調で聞いてくる。俺は、何も言えなかった。言葉にするのが躊躇われるほど、分かりきっていたから。
 俺の返事を待つことなく、柚希は続けた。

「望道を連れて行きたい。ほかの誰でもない、望道と二人で、綺麗な時間と景色を共有したい、って。……きっと、素敵な夜になるだろうから」

 柚希の声は小さかったけれど、普段に増して透き通っていた。

「あんな話、するつもりなんてなかったの。少しも、なかったのよ。でも考え始めると私、やっぱりまだ駄目。
 でも、でもね、こんな話ができるの、私の今までの一生の中でも望道だけなの。望道だからつい、自分の弱いところが出てきちゃう。ずっとあなたと一緒にいたいって思っているのに、頭のどこかでは、“ずっと”なんて、“絶対”なんてあり得ないなんて思ってしまう自分がいて……ごめんね。
 でも私、生きていてもいいのね。私のようなくだらない人間でも、それでもあなたの隣にいることを……あなたは笑って許してくれるのね。
 私は、私のままでいてもいいんだって……教えてくれたのは、あなたよ」

 だから、ありがと。
 彼女はそう言って、また泣いた。熱くなる頭を、ゆっくりと撫でてやる。撫でたせいで彼女の顔にかかってしまった髪を払ってやると、さらさらとした手触りの下から白い頬が現れた。震える指で触れたその頬は、暖かかった。

「柚希が泣くほど悲しいなら、俺は『絶対』なんて求めたりしない。俺が大事だと思うのは、今目の前にいるお前だけだ」

 いいことを、なけなしの理性を、言葉にしたいのに声はかすれてしまう。
 柚希の左手が、彼女の頬の上で俺の右手に重なった。

「ありがと、望道」

 いつもよりも近くで微笑む大きくて潤った黒い瞳に、月の光が差し込んでいた。そしてその瞳が、白いまぶたに隠される。
 俺は、柚希の唇の柔らかさを一生忘れない。



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