確かな円運動が二人を繋ぐ
疑問の月曜日
 今日も二限に物理の先生のご活躍だ。たいていは怠惰と眠気に踊らされている生徒たち。かつては俺もその中で愚かなステップを踏んでいた。

「慣性力というのは、見かけの力のことです。一緒に運動している観測者には静止して見えるものも、大地からの観測者にとってはそうではないということです」

 授業そのものに魅力があるのかどうかは、俺には分からない。

『慣性力=見かけの力
 同時に運動……静止(これが見かけ)
 大地観測者……運動している』

 そんな、あまり褒められない過去を持つ俺がどうしてこんなに懸命になってノートをとっているのか? 顔をあげて斜め前方の遠い影に目をやる。その先には、愛嬌と涼感を足して二で割って、そしてさらに知性を感じさせるあの女子生徒の横顔が目に入る。彼女は姿勢を正しつつも恐ろしいスピードでシャーペンを動かす。授業の四分の三以上をシャーペンを動かすのに費やし、黒板を見つめている時間は一回につき五秒にも満たない。彼女の名を四ノ倉しのくら柚希ゆずきという。そんな彼女を確認して、俺は意識を無理やり黒板に引き戻す。俺、紺崎こうざき望道たかみちの理解の箱は、授業を聞かなくてもいいなどと言えるほど要領良く出来てはいない。

「遠心力も慣性力の一つです。円運動を観測するとき、大地からの観測者は向心力が働いているように見ます。しかし、同時に円運動をしている観測者は、物体が静止して見えるわけですから、向心力とつりあう力が働いているように見えるんですね。これが、『遠心力』です」

 俺の遅筆とノートはぎこちなく、けれど着実に知識を詰め込んでいく。

『遠心力=慣性力(円運動において)』

 ……しまった、聞きそびれたな。まあ、いいか。あとで柚希に聞こう。



「遠心力が見かけの力ってのは、どういうことなんだ?」

 いつものように青い林の中に二人。柚希と、俺。今日も明日もこれからも、こんな日々が続いてくれさえすればいい、なんていうのはやっぱり俺のエゴなのか。柚希と俺の存在が、いつでも俺の近くに居てくれる柚希の存在が、例えば物理学の定理のように絶対不変の真理であって欲しい、なんて。
 ……やっぱり傲慢ですな、俺は。

「遠心力か。……難しいこと聞くね」

 目をつむって思考する柚希は何にも比べがたく、知的で美しい。しばらくして一つ二つ頷き、人差し指で一つ、大きな円を空に描いた。

「結果だけに注目すれば、運動は確かに円を描いているね。でも、運動の一瞬だけを見つめてあげれば、彼らは常に前向きよ。接線方向……円から真っ直ぐに飛び立とうとしている」
「真っ直ぐ?」

 円はどこまでも「弧」だ。何の抜かりもない曲線だ。真っ直ぐという言葉は、この話の中で異端に響く。

「『あくまで真っ直ぐ』と言った方がいいのかな? 真っ直ぐなのは本当に一瞬間。円をどんどん、どんどん細かく微塵切りにして、やっと直線とみなす……そのくらい、一瞬。
 その真っ直ぐな運動を歪めている力があるんだけど……分かる?」

 俺は何かが――例えば競技用のハンマーのようなものが――ブンブンと回転する様を思い浮かべた。回る回る……そしてついに、ハンマーは飛ぶ。飛んでいく。

「遠心力、かな」

 結局、聞き覚えのある単語しか思いつかなかった。しかも、

「あれ、でも、俺って今遠心力のこと聞いてたよな……?」

 クフッと柚希が吹き出して笑った。

「そうね。でも、惜しかった。答えは『向心力』よ。円運動をするために生じる、円の中心方向の力のこと。不思議でしょう? 円の中心方向に力が働いているなんて」

 確かにそうだ。力の方向と運動の方向が、まるで適当な方向を向いているように見える。柚希は立ち上がり、スカートについた細かい芝を払うと、俺を振り返って人差し指を立てて(これは彼女の癖だ)言った。

「宿題――課題にしよう。題して『円の運動に、中心方向の力が働いていることについて』。私も考えてくるけど、あなたも……」

 そう言ってから、柚希は急に黙り込んだ。なんだか、いや、何とも言えない顔をしている。

「……望道も、考えてきてね」

 わざわざ言い換えてくれたのか。……。

「よし、いいんじゃないか」

 俺の言葉は棒読みになってしまっただろうか?

「うん、じゃあ、今日が月曜日だから、期間は五日間。今週の金曜日にまたここにきて、考えを分かち合うことにしよう、ね?」

 いつになく嬉しそうな柚希の笑顔に、俺は苦笑いして頷き返すことしかできない。柚希の力を借りずに考える……。これは大変なことになった。不安な気持ちを覚えずにはいられない。
 けれど。

(面倒なことになったなぁ……)

 こればかりはおくびにも出せない。



 竹林に来るのは自由だけれど一切の意見交換は厳禁、というルールも加わった。

「望道の思考の手助けならしてあげる。でも、手助けだけ。全ての言葉、全ての思考が望道のものでなくちゃ、意味がない。……いい?」

 俺は、二つ返事で了承した。断りようがないじゃないか。一晩が経過したが、何の進展もない。というのも当然で、そもそも議題が一問一答形で提示されていないからだ。この前は「なぜ人間は万有引力を見つけ、名前をつけることができたのか」だったのにな。

「『円運動に中心方向の力が働いていることについて』……」

 帰宅後の机の上でもう一度、口に出してつぶやく。何度つぶやこうとも、漠然として漂うだけのその題が忌々しい。問題なのは、俺には分からないことがありすぎるということだ。まずは基礎的な知識を身につけないと、一週間もやっていけない。今日買ってきた「基礎から学ぶ力学」という本を鞄から取り出す。円運動はかなりあとのページだ。

【遊園地のアトラクションの一つであるメリーゴーラウンドや、陸上競技のハンマー投げのように、一定の速度を保ったまま円周上を回る運動を、円運動という。】

 なるほどね……俺は頭の中でイメージする。そのまま、続けようと試みる。

【円には中心が存在し、中心から円周までの距離を半径r、運動の速さをv、二本の半径の間になす角をθシータであらわす。また、物体が一秒間に回転する角度を「角速度」といい、ωオメガであらわす。一回転にかかる時間をTとし、一秒間の回転数をfであらわす……】

 目が回る。たった数文で記号が六個も出てきた……。

(これは一筋縄じゃいかないな……)

 相当の覚悟をするべきだった、と先にたたない後悔をして、ノートとシャーペンを取り出した。手で書いてまとめた方が分かるかもしれない。時間を忘れて作業に没頭し、気がつけば日付をまたいでいた。



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