第6話-1 


(叫びも涙ものみこまれて沈みゆく)
(あなたを支える力が あなたに楔を打つのなら)



 僕が東海林とまともに会話したのは、高校三年の始業式の日だった。
 向こうはどうだか知らないけど、僕は東海林の存在を知らなかったわけではない。……嫌になるほど、目立つ奴だったから。
 でもきっと、僕とは一生縁のない人間だと思っていた。ただ僕の周りを通り過ぎていく、有象無象のひとつだと。
 ――そのはずなのに、気がつけばいつも隣にあいつがいて。
 それがすっかり当たり前のことのように、僕は感じてしまっていたんだ。
 僕達はくだらない話をたくさんした。そのすべてを覚えているとは言わない。けれど、僕が東海林とした会話のなかに――

「俺がお前のヒーローになってやる」

 こんな台詞は、なかった。
 あれが僕の記憶のなかの東海林じゃないとしたら、……あれは、あの東海林は一体何なんだ。本当にあいつなのか?
 ……東海林。今、君は何処にいて、何をしてる……?




「――葉月」

 覚醒を促す声が僕の耳に響く。
 発生源は、リーレイ。僕はその姿をしばし目にとめて――けれどなるべく目線を落とさないようにして、

「……何?」

 と訊いた。
 無音の冷たい道を、僕とリーレイは黙々と歩んでいた。
 相変わらずの薄い空に、威圧するような針葉樹の群れ。そしてしゃりしゃり鳴る曲がりくねった土の道。
 あの、北の扉の場所であったことが嘘みたいに、僕達を取り巻く風景は何も変わらない。
 ……ただ、行くときに比べて帰路は、お互い無口だった。
 リーレイは少しだけ困ったような表情を浮かべたけれど、すぐに微笑んだ。

「何も訊かないのね?」
「……何を?」

 たぶん、僕が今一番知りたいことの答えは、彼女には判らない。僕が親切心から何も問い質さなかったと思っているなら、それは彼女の大間違いだ。
 リーレイは僕の数歩先を、ゆっくり歩く。
 つられて僕も足を踏み出した。そのたびに霜が崩れる音がする。

「訊いていいなら、訊くけど」

 半ば義務感で僕は口を開いた。
 さっきまでのことを、疑問に思う……ことは確かだ。でも、相手に不快な思いをさせてまで知りたいとは思わない。
 僕は目の前でなびくリーレイの髪を眺めながら、

「――無関心でいるの、得意なんだ」

 口の端を持ち上げてちいさく笑みを浮かべる。
 肩ごしに振り向いたリーレイはやっぱりどこか困ったような顔で、そうなの、と呟いた。

「でもね、葉月。君は知るべきだと思うわ」

 凛とした声が僕を貫く。

「……特に興味はないよ」
「わたしが葉月に知っていてほしいの」

 春の陽射しのように優しく微笑んで、リーレイは僕を見た。


        ***


「――は? 何さ、それ? 東海林、アタマ平気?」

 このうえなく胡散臭そうに、池椋は東海林の顔を覗き見た。
 そんな元クラスメイトを見るなり、東海林は腹を抱えてけらけら笑い出す。

「真に受けんなって」
「あ、ウソか! まーたお前はぁ。俺はてっきり噂の神隠しのことかと思ったじゃないのよ」
「ああ、アレな」

 相槌をうって、東海林が立ち上がる。

「またあったんだって? 東海林のクラス、だったっけか。――神隠し」

 神妙な顔で尋ねる池椋に、東海林はあまり気乗りしない様子で、あったよと答えた。
 と、いきなり隣の教室の戸ががらりと開かれ、眼鏡をかけた女生徒がひょっこりと顔を覗かせる。

「ちょっとぉ……うるさいなぁ――って、東海林じゃない。うちの部に何か用?」

 女生徒はきつい眼差しでこちらを睨んでいたが、闖入者が東海林だと判るとあっさり口調を弱めたようだ。

「百武(ひゃくたけ)、お前美術部だったの?」
「ん。部長だけど?」

 それが何? と、百武と呼ばれた女生徒は尋き返す。彼女は脇に何やら大きな板のようなものを抱えていた。

「や、ここいっつも人いねぇからさ。……部員、ちゃんといたんだな」

 東海林は目線で美術室の内を示す。いつ見ても空っぽの印象を受ける、雑然とした部屋。
 それを追うように百武は美術室を見て、

「ああ。普段はあっち、準備室使ってるからね。いるはいるけど部員少ないしね」

 苦笑を浮かべて、だからここはあんまり使わないんだよと続けた。
 ふーん、と頷く東海林の隣で、池椋が物珍しそうに百武の抱えた板を眺める。
 池椋の視線を察すると、

「これ? キャンバスだよ。先輩が描いたやつなんだけどさ、もう消しちゃおうかと思って」

 そう言って百武は、ふたりに見えるようにキャンバスを傾けた。

「――!!」

 その絵を見たとたん、東海林が目を瞠る。
 そんな東海林には気付かず、池椋は感嘆の声をあげてまじまじとキャンバスを眺めた。

「へぇー。綺麗じゃん。芸術わからんけど」
「うん。私も好きなんだけどねー、この絵。入賞しなかったのが不思議」
「え、好きなのに消しちゃうんか?」
「だってうち弱小部だから。これ白で塗り潰してまた新しいの描くんだよ。いつまでもとっておけなくって申し訳ないけどさ」

 百武が遠慮がちに笑う。その視線を池椋から東海林に移して――、

「……なに、そんな怖い顔して?」

 矛先を向けられた東海林は、はっと顔をあげた。すぐに軽い笑みを浮かべて何でもない振りをする。

「悪ぃ悪ぃ。俺こういうの全ッ然わかんねぇからさ。つい難しい顔しちまった」
「ふーん?」

 百武はあまり納得していないようだ。
 少しバツの悪そうな顔で、東海林はあさっての方を向いた。
 そんな光景を不思議がりながらも、池椋が口を挟む。

「俺らの先輩ってことは、もう卒業しちゃったんか。どんな人だったの?」
「それが、実は知らないんだよね」
「へ? 知らないって、すげェ先輩とか、部員じゃなかったとか?」
「そんなんじゃないよ? でもさ……、この人ってさ……」

 言いにくそうに、百武は口ごもる。

「――最初の、神隠し」

 消えた台詞の先をつぐように、強張った声で東海林が告げる。
 驚いて自分を見つめるふたりの視線に気付かないほど、東海林はその絵を睨みつけていた。
 普段の明るい彼とはだいぶ違う東海林の様子に戸惑いつつも、百武は話を続けた。

「う、うん――そうなんだよね。この人、うちらが一年のとき三年だったはずの人なんだけどさ、……一年生のときに、そう――なっちゃったみたいで……」
「最初の神隠しっていうと……」

 何かを思い出そうと、天井を眺める池椋に、

「……帰ってこなかった人、だよ」

 俯きがちに百武は答え、そしてちらりと東海林を窺う。もう睨んではいなかったが、その顔は能面のように無表情で、感情の機微が欠落したようだった。
 明らかに百武が知る東海林ではない。
 池椋もそんな雰囲気を察しているのか、妙に気まずい沈黙が流れる。

「で、でもさ」

 暗い空気を払うように、池椋が切り出した。

「神隠しって言っても、うちのガッコの奴らが言ってるだけじゃん? その人以外はみんな帰ってきてるしさ、別に関連性とかないんだよな?」
「そ、そうだよね。普通に家出だったとか言われてるしね」

 明るい声を装って、百武が便乗する。なんとか場を盛り上げようと四苦八苦するふたり。
 気付けば窓の外はもう、だいぶ暮れなずんでいた。

「だからさ、東海林んとこのクラスの奴も帰ってくるって!」

 最終的にそう締め括り、池椋は東海林の肩をばんばん叩いた。
 どうやら、自分のクラスで神隠しがあったせいで、様子がおかしいと思われているようだった。
 当たらずとも、遠からず。
 東海林は意識的に笑顔を作り、

「いや、あいつはもう帰ってこないんだ」

 さばさばした口調で応えた。
 池椋が目を丸くする。

「え、じゃあまじに家出とかなわけ……?」

 済まなさそうに眉を下げる池椋に、まあそんなとこ、と軽く言うと、東海林は美術室に背を向けた。
 肩ごしに振り返って、

「わりー。俺用事思い出したから帰るわ。なんかごめんな、気ィ遣わせて」

 最後の方は苦笑まじりに、池椋と百武へひらひら手を振って、それから足早に美術室から去っていった。
 残された池椋と百武はふたり揃ってぽかんとしている。

「なんか……今日の東海林変じゃねぇ?」
「うん、変だった……」

 でも、と百武が言葉を続ける。

「いなくなったのって、東海林とすごい仲良かった男子だよね?」
「まじ!? そーだったの?」

 廊下の方を心配そうに眺め遣りながら、百武は手にしたキャンバスを胸に抱え直した。

「うん。なんかうちの男子がぼやいてたよ? 三年なってから東海林が全然構ってくれないって。――東海林ってほら、付き合いいいけど、特定の誰かとつるんでたり、ってなかったじゃん。だから珍しいなってね」
「まじかぁー……。やべー俺触れちゃいけない話題に触れたかぁ?」

 顔を両手で覆って、池椋は天を仰いだ。その台詞には悔恨がにじむ。池椋にとっても東海林はかけがえのない友人なのだ。
 百武がぽつりと呟いた。

「神隠しかぁ……ホントに、あるのかな」





 吹き抜ける春風が、髪をさらった。
 その強さに思わず顔をしかめて、東海林は屋上に足を踏み入れた。
 視界いっぱいに広がる空は、どこか郷愁を誘う薄い紫色で、たなびく雲は鮮やかな茜色の影を落としている。
 気まぐれな風に揺れる、中途半端な長さの髪をかきあげ、屋上の手摺りにもたれかかった。

「……あんたが違う方を〈選んで〉いたら、篁は帰ってこれたのか」

 呟く声は風にさらわれて、夕暮れの空にかき消える。
 屋上には東海林の他に誰もいない。それでも東海林は、まるでそこに誰かがいるかのように話し続けた。
 ふ、と何かに気付いたように、その沈痛な面持ちを和らげ、

「ああ……そしたら俺と篁が出会わなくなるのか……」

 と、眉根を寄せた。
 難しい顔で黙りこむ。まだらな焦げ茶色の髪を、春風がもてあそぶ。
 唐突に、東海林がくしゃくしゃに髪を歪めた。崩れるように悲嘆に暮れる。

「ちくしょう……知ってたのに、わかってたのになぁ……! なんで……なんで……」

 がん、と、手摺りに拳を叩きつける。

「――〈順番が、逆なんだ〉!」

 言いようのない喪失感に苛まれる背中に、下校のチャイムがどこかそらぞらしく響いた。


        ***


「わたしはね、本当はまだ全然ダメなの」

 前を歩くリーレイは、少し俯きがちにそう切り出した。
 僕はただそれを黙って聞いている。視界には相変わらず、彼女の長く柔らかそうな髪。

「守護者として、全然ダメなのよ。もう、全く」

 そもそも守護者がどういうものなのか理解出来ていない僕にとって、彼女のどの辺りが「ダメ」なのかが判らない。
 だから、無神経だと思いつつも、こう尋ねずにはいられなかった。

「具体的には、どこが?」

 一拍ほど間が空いた。
 霜の砕ける音と、握った手の微かな温もりだけが、僕とリーレイを繋ぐ。
 静かな声音で、彼女は違う話を始めた。

「ここの大地は、とても怖がってるの。だから滅多に応えてくれない。すごくすごく臆病で、とっても深いところで閉じこもっている」
「……怖がりなの?」
「ううん、昔、怖いことがあったの。その傷を、今も癒やせずに……こうして、すべてを覆い隠すたくさんの木と、冷たい霜柱で守ってる」

 慈悲深い眼差しで、リーレイは天を貫く針葉樹を見上げた。

「――もう誰もこの地に来ないでほしいと思ってる」
「……どうして」
「そこまでは判らないわ。でも、だから……さっきは、驚いたの」
「誰が、何に?」

 視界を流れていく樹木がだんだんとまばらになる。彼女の家が近い。
 彼女は振り向かない。

「きっと共鳴してしまったのね。……悪いこと、しちゃったわ」
「全然、判らないんだけど」

 多少不満を込めてそう言うと、リーレイはやっと振り向いた。亜麻色の髪がふわりと広がる。
 彼女はいたずらっぽく笑って、僕の手をひく。

「――葉月に見せたいものがあるの」

 その顔は、やっぱりどこか困ったように見えた。



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