第10話 


(‐続く物語‐)


 遠く水の撥ねる音がこだまする。
 続いて反響する、微かな足音。
 半ば寝そべるようにもたれかかっていた乳白色の巨石から、僕は心持ち顔をあげた。ゆるゆるとまぶたを開ける。腰近くまで浸かっていた碧水にささやかな波が立つ。乱反射した光がオーロラのように仄暗い鍾乳洞の天蓋をきらめかせた。
 足音が近付く。話し声も聞こえる。どうやら複数の人間のようだ。
 ……ここに人が来るのは、いつ以来だろう。そういえば僕は今どんな姿をしていたっけ。というかどの姿でいるべきなんだろうか。
 水面に映る自分の姿に視線を落とす。そこにいる僕はあの頃と少しも変わっていない。見慣れたというより、見飽きてしまった。

「……とにこっちで合ってるの?」
「合ってるから信じとけって……」

 ――邂逅はもうすぐだ。
 久しぶりに、あの姿になってみようか。それでもあいつは気付くだろうか。どっちにしろ、守護者としての僕に会いに来るのだからそれ相応の姿をしていないと……。
 そう、考えているうちに変貌は終了した。
 碧い水面にその大半をたゆたえた丈の長い夜色の外套。腰まで伸びた後ろ髪。背中に生えた奇妙な形の片翼。玉飾りだけは邪魔だから着けなかった。
 変貌を終えるとほぼ同時に、――僕は彼と出会った。
 覚えている姿よりいくらか幼い、けれど精悍な顔つき。真っすぐ僕を捉える瞳。低く感じる身長。焦げ茶だった髪は明るい茶色で、長さだけが相変わらず。
 それでも間違えたりはしない。するはずがない。
 ――東海林。
 東海林は窪んだ乳白色の石の陰から、躊躇うことなくこの場所へ足を踏み入れた。浅い水たまりに俯せで横になるような格好の僕を遠慮なくまじまじと見つめて、

「……おい、起きてるか?」

 僕が死体にでも見えたのか。
 東海林のいる場所より僕がいる場所の方が数段高くなっているので、目線の高さはそれほど変わらない。
 ぬめる道なき道を、慎重な足取りで東海林は僕へと近寄る。

「お前が、最後の守護者?」
「……そう」
「あー、守護者って……」
「僕は永久を巡り識る者。他は……もういないからわからない」

 ぴちゃん、とどこかで水滴が落ちた。
 僕は翼を震わせて静かに上半身を起こす。そして、左右色違いの瞳で東海林を見た。

「久しぶり。……さすがに待ちくたびれたよ」

 言われた東海林はいつかの僕みたいに怪訝な顔で眉をひそめるばかり。なんだか面白い。
 それから東海林はしばらく周囲の鍾乳石を眺めまわしていたけど、ふと僕に向き直ると、

「あんたいっつもこの鍾乳洞で過ごしてんの? ここまで来るの苦労したんだぜー。引きこもりもびっくりの世捨て人っぷりだよな」
「……僕がここにいなかったら今頃お前は盛大に迷子だよ」
「そうそう……って、ん?」

 首を傾げる東海林に僕は言ってやる。

「僕は僕なりにこれでも面白おかしく日々を生きてきたんだから、とやかく言われても困る」
「うーわ、すっげ棒読み」
「おかげさまで」

 こんなに喋ったのも久しぶりだ。
 見れば東海林の後ろ、鍾乳石に隠れるようにして、三人の人間が恐々ともしくは嬉々としてこちらを窺っていた。十歳くらいの少年と、顔の半分を包帯で覆った年齢不詳の男性と、それから、東海林と同じ年頃の利発そうな女の子。……そういえば東海林は、誰とでも仲は良かったけど、浮いた噂っていうのは聞かなかったな……。

「なぁ」

 東海林が僕に呼びかける。

「何」

 素っ気ない反応をする僕に、東海林は何か腑に落ちないという表情をしながら、

「俺、どっかでお前に会ったことあったっけ?」

 どこぞのナンパ文句のような台詞を吐いた。ああ……まるであのときのよう。高三の、始業式。
 僕は束の間硬直して、

「……僕に訊かれても」
「だよなーないよなー」

 それでも納得がいかないのか、東海林は腕を組んでしきりに唸っていた。
 思い出せるはずないだろう。
 だってこの東海林と僕は本当に初対面なのだから。経験していないことを思い出せたりしたらそれはそれで危ない。
 ひとしきり考え込んだあと、東海林は僕に向かって尋いた。

「ずっとここにいんの?」

 何故だろう。口調も仕草も、僕の知る東海林そのものなのに、目の前の彼はやっぱり僕の知らない東海林なんだ。

「……さぁ。約束を果たせるなら、きっと何処でもいいんだ」
「先約ありなのか」

 そう言って目を丸くする東海林はどこか子どもっぽくて。やはり彼は僕が初めて会う人間なんだと頭のどこかで認識する。

「……ところで何の用?」

 こんな寂しさを、あいつも感じていたのかな。
 思いを馳せる対象と同じであるはずなのに決定的に違う彼は、一度大きく息を吐いてから、真剣な眼差しで僕を見つめ、

「最後の守護者。あんたの力を借りたいんだ。どうしても必要なんだよ。すげえ図々しいけどさ、……頼む」

 両手をついて、僕に――頭を下げた。
 僅かに目を瞠って身を乗り出せば、僕を見上げる真摯な瞳と真正面からぶつかる。

「――助けたいんだ、こいつらの住む世界を」

 ああ、やっぱり君はそうでなくちゃ。
 適役すぎて文句のつけようがない。
 それでこそ、待ってた甲斐があるというもの。

「ねぇ。ヒーローの条件って何だと思う?」
「なんだそりゃ。謎掛けかなんか?」
「……さぁね。とりあえず頭を上げてくれない? 君にずっとそんなことされてたら僕は爆笑しかねない」
「んあ?」

 怪訝そうにしながらも、言われるがままに立ち上がる東海林。
 それに合わせて僕も腰を上げる。濡れた裾から極彩色の雫がいくつも跳ねて、それがまた天井に新たなグラデーションを生み出す。

「条件はね……、」

 自然の照明を夜色に染める不粋な翼を手のひと振りで消し、『四人め』の召喚者を見下ろす。

「どれほど酷な運命であろうと逃げ出さず、己を知り、受け入れ、そうすることによって齎されるすべての犠牲を背負い、それでも尚且つ運命に立ち向かう覚悟を持った者……であること、だよ」

 僕はただ享受しただけだった。
 たったひとりの為になりたかったそれも、気付いたときにはもう何もかもが遅すぎて。彼女との約束は守り続けたけれど、あれで良かったのかと迷うことが今でもある。

「それが条件?」

 揺るぎのない瞳が僕を捉えた。懐かしいのに、全然馴染みのない視線。だけどそれは紛れもなく東海林のものなんだ。
 不思議な感慨を持って僕はその瞳を眺め、淡泊に頷いた。

「そう」
「そうか。なら……よし、決めた」

 ねえ、東海林。僕は、きっと。


「俺がお前のヒーローになってやる」


 ――君に、憧れていたんだ。


「だからそこから下りてこいよ。あんたの約束ってやつも付き合うからさ」

 棒立ちの僕の顔をついと指差し、

「そんなつまんなくて仕方ねえって顔してるくらいなら、俺と一緒に行こうぜ」

 楽しい旅になる保証は出来ねぇけどな、と付け足して、東海林は笑った。
 保証くらいしろよ。僕を連れて行こうとするのなら。
 僕は自分の表情を確かめるように、顔の輪郭を手でなぞる。つまらなさそうな顔、してたかな。
 東海林はバツが悪そうに頭に手をやり、

「ついでに協力してくれたら言うことなし!」
「……図々しい」
「わり。頼むよ」

 拝むように合掌する東海林。

「……頼まれるよりは、さっきの方がまし」
「あ?」

 聞き返す東海林へ、僕はほんの少しだけ口許を緩める。

「保証なら、僕が持ってる」
「……もしもーし。何の話?」

 君といる日々は、そんなに悪くなかった。
 ……それは僕が一番良く知っている。知っているんだ。

「……いいよ。少しだけなら」
「ん?」
「一緒に行こうか」

 それはたとえば、帰りどこかに寄ろうか、と言うのと同じくらい簡単で気安い台詞だった。だけど、僕と君の間ではそれで正解。
 東海林はすぐに破顔して、

「まーじーでー!? 恩に着るわ、サンキューな! えぇっと、そいやまだ名前聞いてなかったっけ。まず俺な。俺は――」

 マシンガンのような東海林の台詞を僕は遮り、

「僕の名前は、ヴァリエ=ハヅキ=タカムラ」

 約束の名前を呼ぶ。

「……よろしく、篤季(あつき)」

 どうかこの僕の名前を覚えておいてくれ。
 目をぱちくりさせる東海林へ、そう願いをこめる。
 いつか君が現代に戻ったときに、気付けるように。思い出せるように。
 ――僕を、見つけられるように。
 きっとその僕は君を邪険に扱うだろうけど、くじけずに根気よく粘ってほしい。
 ……君のおかげで、今僕はここに在るのだから。
 次に会うときは、咲き誇る桜の季節に、きっと。出来ればもう少しましな出会い方で。



 そうして僕は、ふたつの約束を無事に果たした。
 彼女との約束はどうなったのかとか、このあと僕と東海林が何をしたのかとか、それらはまた別の誰かの物語。
 僕の――篁 葉月の物語は、ここでおしまい。
 僕はヒーローにはなれなかった。
 けれど、『篁 葉月』という物語のなかで、僕は、確かに主人公だったんだ。
 それは時間を越え世界を越え、地中に眠る鉱石のように、幾歳月幾星霜変わらぬ存在であり続ける者。
 その目に世界を視る者。
 心に咲かない蕾を抱く、……永遠の、春待ち人。


 永久を識る者、守護者の物語。



Fin.



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