第9話-1 


(――約束をしたんだ。)
(君と、あなたと。)



 もうもうと立ち込めた水蒸気を涼風が霧散させる。
 全身をなぶる湿った風に一瞬目を眇めてから、メディテイトは己のすぐ傍らで膝をついたままの人物を見た。
 細い鋼を思わせる青みがかった黒髪。肩を流れるその髪には飾りのようなきらめく玉がいくつも揺れている。薄物のはずだった衣服は丈の長い夜色の外套に変わり、お世辞にも逞しいとは言えない背中には、――いびつな形状をした、夜色の片翼。
 異界から来た少年――であったはずのその人物は今や、別人かと疑いかねないほどに、変貌していた。

「な……」

 無意味な言葉を発しながら、驚愕のあまりメディテイトは一歩後ずさった。
 これは何だ。
 目の前の事態は己の理解の範疇を超えている。
 守護者に覚醒して、こうまで風貌が変わるなど……聞いたことがない。いや、風貌が変わる、などという生易しいものではないだろう。
 眼前で震える翼。
 これでは――全く違う生き物ではないか。
「彼」が痛みに悶えはじめたときは、魔力石がまだないせいかと思った。何故なら「彼」はその時点で魔力石になりえる物を何も持っていなかったからだ。しかしそれにしては苦痛の程度があまりに酷い。
 何より、それくらいではここまで変貌するなど考えられない。
 ふ、と微かに息を吐く音が聞こえた。
 メディテイトは我に返り、知らず知らず、「彼」を凝眸していたのだと気付く。それでもどこか沈鬱に眉根を寄せずにはいられなかった。

「……とりあえず、無事に覚醒出来たようで何より。守護者はお前で最後だ。同胞よ、歓迎する」

 返事はない。

「守護者の存在を感知出来ても、それがどの守護者なのかまでは我らには解らない。よければ、名前と称号、属性を教えてほしい」

 微かに、鋼の髪が揺れた。
 抑揚のない声が静かに響く。

「……ヴァリエ。永久に巡り識る者、不変であり形なき守護者。属性は――」

 ゆるりと顔だけがこちらを振り向く。相貌は全く変わらないのに、片目だけが、夜の海にたゆたう月のような琥珀色を帯びていた。

「魔力、石は……?」

 メディテイトの問いに「彼」、いやヴァリエはしばし沈黙してから、気怠げに立ち上がった。視線はすでにメディテイトから外れている。
 これが、本当にさきほどまでの少年だろうか?
 自分が頬を打ったはずの、何も知ろうとしなかった少年の姿とは似ているようでどこか齟齬がある。
 無気力そうな話し振りはさっきまでと変わらない。しかし……あれほど揺らいでいた、その瞳に浮かべていたはずの動揺が一切消えている。
 どこまでも反応の薄いヴァリエに、メディテイトは多少の訝しさを感じながら、

「いや、無理に教える必要はない。……これから、どうするつもりだ」
「別に、どうも」
「……なんだって?」

 メディテイトが凄んでも当の守護者は顔色ひとつ変えず、こちらを一瞥しただけ。こいつは、本当に解っているのだろうか?

「覚醒したなら解っているはずだ。我々のさだめが。知らぬふりなどするな」
「どうでもいい」

 メディテイトの台詞を一蹴し、ヴァリエは目を伏せた。それはさながら会話終了の意思表示のよう。

「ふ……ざけるなっ!!」

 気付けばメディテイトは声を荒らげていた。

「守護者になったんでしょう!? 守護者が何者かわかったはずでしょう!? リーレイの――リーレイの気持ちだって、わかったんじゃないのか! なのにお前はまた……っ、また、知らないふりをするのかッ!! どこまで彼女の気持ちを蔑ろにすれば気が済むんだ!!」

 リーレイは友達だった。
 この寒冷の地で唯一の、解り合える親友だった。だったのに!
 この男のせいでこの男のせいで、と恨み言がメディテイトの裡に蓄積していく。

「……彼女の気持ちは僕には永遠にわからないし、あなたが言うところの『守護者のさだめ』も僕には関係ない」
「……っ!」

 目の前が真っ赤に染まった。
 元々守護者同士だからと言って馴れ合うものでもない。ないが――ヴァリエはリーレイの想いを無下にした――このときのメディテイトには、そのことばかりが頭を占めていた。

「こ……のッ!」

 腕を振るって力を行使する。
 ただ怒りを吐き出したかっただけ。その行為を戒められるほどの理性は今のメディテイトにはなく。
 メディテイトの属性は「天空」、すなわち重力。
 不可視の重量を伴った鉾が、瞬時に生成され、目の前の守護者を押し潰す――はずだった。

「……え……?」

 半ば茫然と、虚空を凝視する。
 何も起きない。
 守護者の力は確かに働いていた。
 しかし、何らかの力によって、強制的に消失させられた……!?

「お前……今、何を……した?」

 返ってくるのは微かな吐息。それから――、

「……あなたの魔力石は、その鎧なんだね」
「…………」
「……言いそびれたけど、僕の属性は『金属』」
「きん……ぞく?」

 おうむ返しに呟いて、己の身に纏った銀色の鎧を見下ろす。
 そんなメディテイトからヴァリエは視線を外したまま、

「……ところで、いくつか聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」

 メディテイトは眉をひそめた。

「……今この世界に、軍人は居る?」
「王室近衛団ならあるけれど……きちんとした軍部はない」
「……大爆発を引き起こすような兵器は」
「ない。正確には知らない、と言うのが正しい」

 一体。
 何を知りたいのか?
 じゃあ、と言ってヴァリエは透かし見るように森へと視線を向けた。その方角は、奇しくも北の扉がある方向だ。

「……今まで来た召喚者は――何人?」

 何故。
 そんなことを。
 混乱しながらも自分が知る限りの情報を口にする。

「お前を入れて、『二人』。最初のひとりは今はもう伝説上の人物だ。……私は、会ったことがない。守護者が全員目覚めたから、召喚さえすれば新たに三人めが来るだろう。アースマスターとしては、二人めになる」
「……そう」

 当惑するメディテイトを尻目に、ヴァリエは虫でも払うかのような仕草をした。途端に、ヴァリエの姿が揺らぎ、一瞬後には守護者になる前の容姿に近い姿になる。瞳は左右同じ色だったし、髪も長くはないし、衣服も細部は違うがほぼ元通りだ。翼に至っては生えていた形跡すら認められない。
 その姿で、ヴァリエはメディテイトに向き直った。

「……僕には、果たさなければならない約束があるんだ。未来がどうなろうと僕に支障はない。だからあなた達がこれからやろうとしている争いには、全然興味がない」

 それに、とヴァリエは言葉をついだが、呟くほどのちいさな声だったのでメディテイトには届かなかった。

「僕が待ち望んでいるのは……その『三人め』じゃないんだ」



         *



(おねえちゃん)

 頭のなかにちいさく反響する。

(おねえちゃん!)

 まだ幼い女の子の声。
 視界を上塗りするように、それは映し出された。

(――リーレイおねえちゃん!)

 そういえば彼女は妹に会えたんだろうか。あんなに、嬉しそうにしていたのに――。
 まるで古ぼけた映写機みたいに、今見ている景色に重なって、現代なら小学生くらいの女の子の姿がぼんやりと見える。
 金髪に、深緑の瞳。
 なんとなく判った。
 ……あんまり、似てないよ。

(おねえちゃん、あたしをひとりにしないで……!)

 女の子は何かに取り縋るように泣き崩れた。彼女とは違う、緩く巻いた金髪が肩を流れて落ちる。
 場所は屋内のようだ。女の子の後ろに白塗りの壁と様々な瓶が並んだ棚が見てとれる。他にも数人の大人の姿。彼らはみな一様に通夜の最中かのような表情で立ち尽くしていて、それが理由もなく不安をかきたてる。
 ここは、女の子の、家?
 そんなことを考えたとき。
 間違えようもない、間違えるはずのない声が、聞こえた。

(…………)

 それは酷く弱々しい。
 だけど凛然とした。
 紛れもない、彼女の声。
 そんなことしたところで触れられるわけはないのに、僕は手を伸ばそうとしている。何度も何度も、伸ばしては触れずじまいだったこの手を。今さら。
 ――今さら。
 だって。届くなら。まだ間に合うなら。
 まだ。もっと。ちゃんと、……向き合いたかった。向き合いたかったんだ。こんなふうに、終わってしまいたくなかったんだ。きちんと自覚したかったんだ。それほどの時間を、これからも、一緒に……過ごしたかった、だけなんだ。
 まだ何にも話してなかったじゃないか。僕のことも、あなたのことも、聞きたいことも聞いてほしいことも。その春の陽射しのような微笑みで、もっと僕を困らせてみせてよ……。
 僕はまだ、あなたの名前すら呼んでいないのに!
 いつか咲くはずだった花は見せる相手を永遠に失って、花開く日ももう来ない。蕾のまま、いつまでも僕のなかに根差し続ける。
 枯れること、なく。

(……、)

 彼女の声は妙にくぐもっていてよく聞き取れない、もどかしい!
 どうして僕はこの場に居ないんだろう? 見えてるのに、聞こえてるのに、識ってるのに!
 不意に視点が移動する。まるでビデオカメラでも回しているように、覚束ない動きで、僕の目は女の子を真正面から捉えた。
 鮮やかな黄金色の髪。丸みを帯びた顔の輪郭、濡れた睫毛。震える両手。
 やっぱりあんまり似てない。
 ただひとつだけ、彼女と同じ色の瞳が、泣き濡れながらも毅然と輝き始めた。
 何かを覚悟したように、何かを決意したように。
 ああ、……やっぱり、似てるかも。

(大丈夫……あたしがんばるから! おねえちゃんのぶんもがんばるから! おねえちゃんが出来なかったことは、あたしがやるからぁっ!)

 だからお願い死なないで――置いていかないで――
 悲鳴にも似た叫びは、女の子のものだったのか、僕のものだったのか。
 わからない。
 唐突に、映像は途切れた。蒼茫とした視界に入るのは、もう見慣れた針葉樹の森、穏やかな水面。
 あれは……今のは、鏡の?
 僕が変化させてしまった彼女の魔力石。僕と彼女の約束の証。
「守護者にとって魔力石は命に等しいもの」だと彼女は言っていた。その意味が今は自分でも解る。
 ――あの魔力石は、まだ壊れていない。
 そうか。そうなのか。
 気が緩んだのか、微かに吐息が漏れた。
 それを見計らったかのように、背後から声がかかる。

「……とりあえず、無事に覚醒出来たようで何より。守護者はお前で最後だ。同胞よ、歓迎する」

 ……守護者、ね。
 水面に映る、見違えるほど変わってしまった自分の姿を僕は改めて見つめた。不思議と動揺や狼狽はなかった。ただ、髪が長いのは邪魔だなと、そんなどうでもいいことを思いはした。……酷いイメチェンだ。東海林が見たら何て言うかな。

「守護者の存在を感知出来ても、それがどの守護者なのかまでは我らには解らない。よければ、名前と称号、属性を教えてほしい」

 ――名前。
 嫌いな自分の名前。呼べなかった彼女の名前。次に会ったら必ず呼ぶと、約束した名前。
 ……僕がこれから、「僕」として生きる為に名乗る名前。
 緩慢に首をひねって、金髪の守護者を見た。

「ヴァリエ。永久に巡り識る者、不変であり形なき守護者。属性は――」

 からん、と髪に飾られた玉が鳴る。
 天空の守護者は異形のものでも見るような目つきで、

「魔力、石は……?」

 悪いけど、命の在り処を教える気はない。
 もっとも、僕の場合はたぶん、「無くても支障はない」かもしれないけれど。
 僕はゆっくりと立ち上がった。なまじ背中に慣れないものが生えてるせいで均衡が取りにくい。別に飛びたいわけじゃないのに。
 のっぺりとした水色の空を仰ぐ。
 僕は、この世界のことを何も知らない。それは、知ろうとしなかった僕の責任だ。だから、知らなくちゃいけないんだ。
 約束を、果たす為に。
 手繰り寄せる糸なら、すでにある。僕の記憶のなかに。やっぱり何にも知らずに、ただ過ぎる日を浪費していた、あの頃の――東海林の、言葉のなかに。
 思い出せ。あいつは、僕に何を言っていた?

「……これから、どうするつもりだ」

 メディテイトが僕に問う。
 僕の最優先はふたつの約束を果たすこと、と答えようとして、質問の裏にある真意に気付いた。
 僕は間髪入れず、こう答える。

「別に、どうも」
「……なんだって?」

 メディテイトの台詞に当惑の色がこもる。
 ちらりと窺うと、どうやら予想外の解答だったようで、見開かれた青い瞳には憤慨よりも戸惑いが勝っていた。

「覚醒したなら解っているはずだ。我々のさだめが。知らぬふりなどするな」

 詰問口調でまくし立てられる台詞に僕は気のない返事をして、メディテイトがそこまで高ぶる理由について思案をめぐらせる。
 僕自身、自分は例外的なケースなのだと自覚している。普通は、と言うか、だいたいの守護者はきっと、望んでそうなったわけではないのだろう。彼女のように、代償に失うものが少なからずあったんじゃないだろうか。
 しかも、新たに名前を得る、力を得る、さだめを負う、ということは、これは人生の上書きそのものだ。本来の人生を歩む為には、邪魔以外の何物でもない。
 そして、守護者は……守護者になる人間は「拒否が出来ない」。残酷なまでに、本人のすべてを無視したシステムと言っても過言ではない気がする。
 だからこそ、その不条理さに打ち克とうとする守護者がいても、おかしくはない。
 そもそも、存在自体、意味不明だし……。
 世界を統べて未来を選ぶアースマスターがいるなら守護者は要らない。逆に、未来を掲げる守護者がいるなら多数決でも何でもして決めればいい。アースマスターなんか喚ぶ必要はない。
 もしもこの世界に創造主がいるんだとしたら、その人物は相当行き当たりばったりで後先考えずに世界を構築したんじゃないだろうか。創造主としては、最低だ。
 その歪みの皺寄せが、守護者。……彼女。
 彼女じゃない被害者が頬を紅潮させて激昂する。

「守護者になったんでしょう!? 守護者が何者かわかったはずでしょう!? リーレイの――リーレイの気持ちだって、わかったんじゃないのか! なのにお前はまた……っ、また、知らないふりをするのかッ!! どこまで彼女の気持ちを蔑ろにすれば気が済むんだ!!」

 それは、僕が守護者の使命に対してやる気が希薄であるということより、彼女の想いに応えてあげられなかったことの方を責めているような口振りだった。
 この人にも心のなかに花があるのかもしれない。見せる相手を失った、ひとりぼっちの花が――。

「……彼女の気持ちは僕には永遠にわからないし、あなたが言うところの『守護者のさだめ』も僕には関係ない」

 彼女が本当は何を望んでいたかなんて、知る機会はもう訪れないんだ。僕はせいぜい、拙い想像を巡らせるだけ。答え合わせが出来ない問題を、延々と解き続けるだけ。

「こ……のッ!」

 激情に任せてメディテイトが力をふるおうとする。見なくてもそれが「判る」。
 僕の言い方のせいもあるかもしれないけれど、平手打ちされたことと言い、どうやら怒ると手が出る性質の人らしい。
 なんにしろ僕は今危険にさらされている。なのに、全く危機感が湧いてこない。何故だろう。
 僕は、殺されるかもしれないのに。
 ……死ぬのは、駄目だ。死んだら意味がない。存在する意味が。守護者になってまで生を選んだ意味が。だから僕は、死ねない。ずっと。
 周囲が陽炎のように歪む。銀色の鎧が鈍くきらめき始めた。おそらくあれがこの人の魔力石。
 なら、そう難しくはないはずだ。
 一本だけ髪を伸ばす。細く、長く、ピアノ線のように。それを指で軽く、弾いた。
 激昂しているメディテイトは気付かない。自らの鎧を一本の鋼線が叩いたことなんて。
 触れ合う一瞬に命令を送り込む。
 それはただ一言。

「鎮まれ」

 一切の動作を止め、放たれる寸前だった天空の力は沈静化した。何の余韻も残さずに。

「お前……今、何を……した?」

 伸ばした髪は元の長さに戻っている。メディテイトはやっぱり気付いてないし、教えるつもりも僕にはなかった。我ながら化け物じみた業だと自嘲じみた笑いを心中で零しながら、

「……あなたの魔力石は、その鎧なんだね」
「…………」
「……言いそびれたけど、僕の属性は『金属』」

 微風が髪をそよがせる。
 守護者を享受した僕に、それでもまだ引っかかることがあるとすれば、それは……。



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