第8話-1 


(あなたは 僕を溶かす春の雨)
(僕は名もなき巡礼者)

(そして目覚めの悲鳴に貫かれ)



 何も羽織らず、薄着のまま外に出る。
 踏み出すたびに霜が崩れて微かな音を僕の耳に届けた。そのまま土を鳴らしてしばらく歩く。頑ななまでに冷たい空気は、吸うたびに肺のなかでごわごわと蠢いた。
 いくら深呼吸しても心は平穏とは程遠かった。ざわざわと落ち着かない。
 いや……落ち着いてはいる。
 僕はまだ、平静を装うだけの余裕を持っている。それがほんの、薄皮一枚ほどのものだとしても。
 僕の心はまだ、まだ、波立たないでいられる。
 ふ、と息を吐く。
 眼前に広がるのは碧い湖面。普段なら分厚い氷に覆われているはずの水面に、今は痛々しい亀裂が延びる。
 ――氷が溶けたら、……春になるんだ。
 この世界に四季という概念はなさそうだったけれど、だけど、春は、来るのだろう。この氷もいつか溶けて、さざなむ日が来るのかも。
 それは確かに春の訪れなのかもしれないけれど。
 目に映る風景に、僕はちっとも春なんて感じない。
 ただただ寂漠が占める、空っぽの世界。
 誰もいない、空虚な箱庭。

 ――リーレイが帰ってこない。

 予定の日数はもう大幅に過ぎていた。
 何か……いや、きっと遅れているだけ――滞在期間を延ばしているだけ、そうであってほしい、そう……あるべきだ。
 言い聞かせるたびに、疑心と不安が首をもたげる。心が翳る。平静の仮面にひびが入る。
 違う……違う違う。
 半ば念じるようにかぶりを振る。
 ああ、ここが現代だったら。
 今すぐにでも連絡を取ろうとするのに。
 手紙を出そうにも連絡先を知らない。この世界での手紙の送り方だって……。
 ぞわり、と胸の奥が冷える。
 ――僕は、この世界のことを何も知らない。
 最初は、興味がなかったから何も知ろうとしなかった。
 その後は、守護者なんて僕に関係ないと、無理矢理耳を塞いでた。
 それでも彼女は話してくれたけど、それはほとんどお伽話のようなもので――
 確かなことは、何ひとつない。
 僕はおののいた。
 真っ暗な底なしの穴に落ちるように、急激に血の気が引く。
 ここは、何処なんだろう。
 本物の異世界?
 それとも――

 ――僕の、ゆめ。

 毎日変わらない景色も、どこか似た道具や料理の類も、……彼女も。
 全部全部、僕の、
 僕が――

”周の夢に胡蝶となるか
 胡蝶の夢に周となるか”

 どこから夢を見ていたのか判らない。
 夢も現実も、違いなんて……判らない。

「目が覚めれば……僕は」

 現代に、元の世界に戻るのだろうか?
 不意に耳元で風が吹いた。

「――ふざけるのも大概にしろ!」

 はっ、と振り向く。
 誰だ。この世界には僕と彼女しか居ないのに。居ないはずなのに。
 目に飛び込んできたのは、冴え冴えと光る金髪。銀色の、鎧。

「言うにことかいて『目が覚めれば』、だと!? まだそんなことをのたまうのか!」
「なっ……」

 誰だ、この人。
 激昂してまなじりを吊り上げる目の前の女性は、格好がおかしい。明らかにおかしい。
 面識もない。
 いや、……そう、森で何回か見かけた人物。僕と彼女以外の、この世界の住人。
 ていうかいきなり怒鳴られる意味がわからない。
 ついでに言ってる内容もわからない。
 長い金髪を翻して、その女性は足早に僕へ歩み寄る。青い瞳を燃え上がらせて。
 僕は突然のことに硬直したまま――
 ぱあん、と痛烈な音が、空に鳴り響いた。
 それが、頬を打たれた音だと気付くのに、僕は数秒を要した。
 打たれたのは……僕の頬。
 そして、打ったのは――。
 金髪の女性は茫然と見つめ返す僕の胸倉を、乱暴に掴んだ。

「夢やまやかしなどではない。たとえお前が認めなくとも! 信じようとしなくとも! 我々は現にここで生きているんだ! 確かにここに在るんだ! 我も……お前も、リーレイも」

 投げるように僕から手を離し、

「いい加減、自分が何者なのか自覚しろ」

 冷たい風が、女性の髪飾りを揺らして遊ぶ。風なんて、吹くことはなかったのに。どうして。

「……誰」

 やっとの思いで、それだけ訊く。
 金髪の女性は、腰に手をあてた高慢かつ高圧的な態度で、その名前を口にした。

「我が名はメディテイト。メディテイト=ユーシェ=ユティカ」

 かきあげた金髪が風になびく。雫の形をしたいくつもの髪飾りが軽やかに鳴る。
 睨みつける青い双瞳。
 白い肌もあらわな、薄物のドレス。
 そして、それらを覆う、あからさまに不釣り合いな銀色の鎧。美しい曲線を描くそのフォルムは、無骨さのかけらもない。
 再び、冷たい風が僕の肌を刺す。じんじんと痺れる頬に、それは心地良い。
 女性は続ける。

「この地を護る守護者〈ガーディアン〉。五つの楔のうち、天空を統べる者」

 ――守護者。
 彼女以外に、本当にいたんだ……。
 呆けた頭が、ゆっくりと回り始める。
 ほぼ敵意に近い、金髪の女性――メディテイトの視線を僕はどこかぼんやりと受け止め、

「……この地を、護る?」

 尋ねた。
 だって、ここには、彼女もいたはずで。それならば。

「リーレイの場所は本来ここではない。この、時空の森と北の扉は我の守護するもの。……リーレイのいるべき場所は、もっと南の、美しいところだ」

 呟くようにメディテイトが応える。
 リーレイ。
 きっと目の前の守護者は知っている。
 そんな確信が胸の裡に湧く。
 彼女の……リーレイのことを。
 僕は、訊かなくちゃならない。

「……彼女は」

 守護者は少しだけ目を眇めたけれど、逡巡はしなかった。
 抑揚のない声で、簡潔にその答えを口にした。

「リーレイは、死んだ」

 ――僕は、目を見開くことしか、出来なかった。

「………………うそ」

 出来損ないの吐息のような、かすれた声。
 嘘だなんて、言ってほしかったわけじゃない。そんなの、気休めにもならないことを僕は知っている。
 だってそうじゃないか。
 その可能性を、僕は、僕だって、考えたんだ。
 そのたびに打ち消した。
 見ない振りをした。
 結局僕は、目を背け続けて、また逃げただけなんだ。意識しないようにとすればするほどそれは増幅して。駄々をこねる子どものように、突っぱねていただけ。
 その証拠に、ほら。
 僕は全然、驚いていない。
 僕の身体を打つのは衝撃。それと、ほんの僅かな納得。
 ああ、やっぱり。
 やっぱり、彼女は――たんだね。そんな気が、本当はしていたんだ。
 何故かは判らない。判らないけど、
 僕はそれを識(し)っていた。
 そう、識っていた。
 微熱を帯びる左目。眼球をえぐり出して掻きむしりたくなるほどの疼きが、言いようのない既視感を僕に突き付ける。
 なんだ、この感じ。僕の裡からこみあげる、この圧迫感。

「お前のせいで、リーレイは死んだ」

 守護者の言葉が硬い波となって僕を打つ。
 ……なんだって?
 一瞬耳を疑った。
 よほど呆けた顔をしていたのか、メディテイトは冷たい目で僕を睥睨して、

「お前がリーレイに、期待など持たせたから!」

 ……期待?

「……何の」

 彼女が僕に期待なんてするはずないじゃないか。僕は、なんら特別でもないただの高校生なのだから。
 ああ、でも。
 半分閉じたまなうらにあの日の彼女が蘇る。

『葉月はアースマスターに違いないの』

 嬉しそうにそう言った彼女は……、あれは。きっと本気で。
 お伽話より、現実味のないことを。
 世迷言にすらならないような、そんな大それたことを。
 本気で、信じていたの?

 ――僕が、あなたの未来を、変えると。

 愕然と目を見開き、よろよろと膝をついて僕はうなだれた。
 まいったな。本当にそう思っていたなんて。彼女らしいと言えばらしいけれど、と微かに苦笑う。強張った口元が緩んで、深い吐息を漏らした。
 ねぇ。賭けは僕の勝ちだったね。
 結局僕はやっぱり、何者でもなかった。
 この世界を変えるアースマスターでもなければ、ましてやあなたを救う、たったそれだけのヒーローでもなかった。
 そう。なにもかも、その通り。僕が再三再四、主張していた通り。
 けれど、本当は――

「リーレイは、アースマスターが来ることを切に望んでいた」

 目の前の守護者はその眉根に憂いを乗せて語る。
 アースマスター。この世界を統べる、異世界からの召喚者。救世主。未来を選ぶ者。
 そして彼女が、邂逅を待ちわびていた者。

「……それは、僕じゃない」

 ――僕じゃ、ないんだ。
 噛み締めるように呟く。口にした言葉は、とても苦かった。
 メディテイトの声音が再び怒気を孕む。

「おかしいと思ったのだ。召喚出来るのはこの国の王女だけ。だがあの王女が召喚するはずないんだ。だと言うのにお前は現れた。王女ではなく――リーレイの元に」
「……たまたま彼女が居たんだ。あのとき、あの扉の前に」

 ともすればぐらつきそうになる極度の眩暈にどうにか耐えながら、僕は必死に、偶然だ、と譫言のように繰り返す。
 たまたま。偶然。因果なんてない。
 そうであってくれないと。
 僕は――もし――彼女が。もし、偶然などかけらもなくて、僕がここに来る契機を作ったのが彼女だとしたら。
 それじゃあ、僕は、何も……何も出来なかった? ……彼女が望んだことも、彼女と交わしたささやかな約束も、何も、果たさずに、彼女は――たの?

「リーレイが待っていたのはアースマスターだ。だがお前は違った」

 どうしてだろう。今はその事実が心から憎らしい。

「そんなこと、リーレイだってすぐに気付いたさ」
「……え?」

 僕は僅かに目を瞠る。
 俯いていた顔を上げて見たメディテイトは、遠い異世界の住人でもなく、伝説めいた守護者でもなく、ただの、友人を想う、ひとりの女性だった。
 やるせなさをあらわにしてメディテイトは僕を詰り続ける。

「当たり前だろう。アースマスターとなるべく召喚された者を我々が間違えるはずがない。言葉など要らない、ただ判る」

 まるで大事な宝物を取られた子どものような顔で、メディテイトは再び僕を打ちのめした。

「そしてお前はアースマスターじゃない」

 何度も言われなくったって解ってるよ。誰よりも僕が一番解ってるよ、そんなことは!
 だからあれほど「違う」と主張していたのに、あの人は全く聞く耳持たなくて、いつも……いつも過剰な期待を僕に押し付けて。
 嬉しそうに、笑っていた。
 春のように、ほころぶ花のように柔らかな微笑みを、僕に向けるんだ。

「彼女も……判っていたの」

 問うた声音は微かに震えを帯びていた。
 吐き捨てるようなメディテイトの答え。

「もちろんだ」
「いつから」
「我には判断しかねる。が、お前がアースマスターではなかったと我に話してくれたとき、お前は臥せっているとリーレイは言っていた」

 ――なんてことだ。
 じゃあ、初めて僕に守護者の話をしたあのときにはもう、彼女は真実を知っていたのか。僕がアースマスターじゃないと知っていて、なのに僕とあんな賭けをしたのか。
 ……どうして。どうして!
 あなたが何を思っていたのか僕にはもう解らない。絶えず浮かぶのは疑問符ばかり。知らずに握った拳が霜降りの土を削った。かじかむ指先が次第に感覚をなくしていく。
 どうして、僕に、あんな話をして、大事な魔力石まで見せて、

「……どうして」

 僕は、あなたの望みを叶えられるような、大層な人間ではなかったのに。
 零した言葉は風にさらわれた。
 風なんて、なかっただろう。一度も吹かなかっただろう。何故今頃、枷を解かれたかのように冷涼な空気へ塗り変えるんだ。
 まるで、――まるで、僕と彼女の時間がこごった澱だとでも言わんばかりに!
 さらわないで。溶かしてしまわないで。
じゃないと、僕は、縋るものが何ひとつ無くなってしまう。
 まやかしではないというなら、確かな事実を見せて。この手に、掴ませて。
 ――真実を。
 彼女の真実を……受け入れるだけの、力が。
 どうか。僕に。
 あったら。
 もう、なくしてから悔やむのは、嫌なんだ。
 視界が揺らぐ。意識が遠のく。定まらない瞳が捉えたのは、やっぱり厳しい顔つきのままの守護者で。
 深層から湧き上がる何かが僕を捕まえた。

『――汝に問う』

 またあんたか。問われても僕は何も知らないんだよ。気付きもしなかったし、知ろうともしなかったんだよ。
 頭のなかに響く声は誰かのものによく似ている。でも誰なのか思い出せない。
 左目が熱い。頭を抱える。耳鳴りがする。金属が擦れ合うような硬質の音が僕を苛む。止まらない既視感。
 いや、そうじゃない。
 これは――既知感。
 僕は、識ってる。
 この問いの答え。是非を。
 僕は、確かに、識っている。

『汝に問う』

 そう、それは僕の声。
 他の誰でもない、僕自身の声。

『我の名は?』

 自分で自分に名前を訊くのはなんだか変な感じだ。
 けれどそれは必要なこと。
 メディテイトは僕に「自分が何者なのか自覚しろ」と言った。
 すなわち、確認、認識、許容、そして……――

 覚醒の、儀式。

『汝に問う。我の、名は?』

 僕の、名前は――



[10/20]

←BACK | TOP | NEXT→



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -