第7話 


(僕と約束を結んでみようか)
(こんな頼りない糸でも 春を喚ぶように)
(未来を 紡げるように)



 そして、彼女の手のなかのブローチに触れる僕。
 そっと。指が、触れて。
 まばゆい光が零れた。

「……え?」

 僕の指の間から、それは闇を侵食して。幾筋もの細い光の帯が、夜を切り裂く。この薄暗い部屋を。暖炉の炎よりも強い輝きで。
 僕を照らし彼女を照らし。
 不規則に戯れる黄色い枝。
 呆然とする僕達を残して、うたかたの光は崩れるように消えていく。細かな粒子が僕とリーレイに降り注ぎ、髪に肩にと舞い落ちる。
 星屑の雨を見ているみたいだ、と僕は思った。
 あっという間に、部屋はもとの暗さを取り戻し、そして訪れたのはひそやかな静寂。
 …………今のは、何?
 どこを見るでもなく、僕は目を見開いたまま。視界にはたぶん、暖色の壁紙がはられた壁が入っているはずだけれど、そんなもの僕には見えちゃいなかった。
 ブローチに触れていたはずの手は、もう引っこめている。
 今のは――いや、光じゃなくて……。
 僕はさっき、なんて言った?
 どくん。
 飛び出るんじゃないかと思うほど、跳ね上がる鼓動。一回だけでは治まらず、その強さを維持したまま責めるように脈打ち始める。
 嘘だ嘘だ嘘だ。
 あれは僕じゃない。
 嘘だ嘘だ嘘だ。
 あれは別人じゃないのか。
 だけどここにいるのは僕とリーレイだけで。
 そして僕はやはり僕自身でしかなく。
 でも、僕の知らない僕が、僕を突き動かしている。認めたくはないけれど。
 ささやかな星明かりを掴みとるように揺れる炎の影。それは鏡に反射して、影の影を生んだ。
 ――……鏡?
 鏡なんて、この部屋にあっただろうか?
 意識が一気に現実へと根をおろす。ゆるゆると、僕は緩慢な動作でリーレイを見た。いや……正確には、彼女の手元を。

「……鏡?」

 見ればわかることを僕は呟いた。
 鏡だ。手鏡より一回り大きいサイズの鏡がそこにある。そこ――つまり、リーレイの手のなかに。

「ブローチが……鏡になっちゃったわ……」

 呆然としたような彼女の声で僕も気付く。
 鏡があるのではなく、ブローチが鏡になったのだということに。
 鏡は頼りない星明かりを受けて、きらきらと夜空を映す。円い鏡面を縁取るように金属の細工が施されていて、それはさっきまであったブローチの模様によく似ていた。シンメトリーを描き、ちょうど両極端で取っ手となる。

「……どう、して……」

 僕は思わず、引っ込めたはずの自分の手を見た。
 そしてまた鏡を見る。
 僕が触ったから鏡になった?
 いやまさか。そんなはずないだろう。
 だって。僕は。普通の、人間で――
 暗い鏡面を白くて細い指が軽くなぞっていく。

「葉月……君はやっぱり――――なのね」

 囁くような彼女の呟きを、僕はすべて聞き取ることは出来なかった。
 僕が――何だって?
 再び眩暈が僕を襲う。左目が疼く。
 僕の身体であるはずの左目からは相変わらず拭えない違和感が押し寄せる。
 僕であるはずの僕の心は、僕の意識などお構いもせずにとんでもないことを口走る。
 ああ、じゃあ僕は一体何処にいるのだろう。
 僕は、――……何者?
 自問に、返る答えはもちろんない。
 眩暈と左目の疼きだけが、僕を無言で苛む。
 それだけが、「僕」という存在を確かめさせてくれるように。

「ふふ」

 不意に、リーレイが笑い声を零した。さらりと、心地良い声音が、僕の鼓膜をくすぐる。

「……?」

 僕は目線だけで問う。
 リーレイはちょっとだけ僕を見て、再び鏡に視線を落とすと、柔らかに顔をほころばせた。
 それは何だかはにかんでいるようで、そんな彼女を見たのが初めてだった僕は困惑するしかなく、ただただ視線だけをさまよわせていた。
 彼女は噛み締めるように一言、

「嬉しい」

 ………………え? 何が?
 僕の疑問が顔に出てしまったのか、リーレイはくすりと苦笑うと、微かに、ひそやかに微笑んだ。

「あんなこと、初めて言われたから。……嬉しいの。すごく」

 あんなこと。
 僕は記憶をまさぐる。

「一緒に同じものを見て、一緒に泣いて、一緒に笑ってくれたら、私はそれ以上望まないわ」
「いや、あれは」

 しどろもどろに言葉をつぐ僕のことなど意にも介さず、彼女は僕にとどめを刺した。

「嬉しかった」

 拒むことなど思わせぬ、柔らかい、温もりの眼差し。

「…………」

 僕は馬鹿みたいにぱくぱくと口を開けたり閉じたりするだけ。恐ろしく間抜けだ。間抜けすぎる。前言撤回なんてとても出来そうにない。

「ふふ」

 リーレイが、おかしくて堪らないといったふうに深緑の双眸を細めた。白い肌が、夜闇にいっそう映える。
 リーレイは鏡を両腕でぎゅっと抱きしめ、祈るように目を閉じた。

「この鏡、大事にするから」

 ――思えばこれが、僕と彼女の間で交わされた、最初で最後の想いだったかもしれない。




 あの頃をよく思い返すのはきっと、後悔を、しているからだと思う。
 何も知らなかった自分に。
 何も知ろうとしなかった自分に。
 守護者は未来を知る、と彼女は言ったけれど、それは守護者だけの話。
 大方の人間は……僕は、この先に待ち受ける未来なんて知り得ない。知る術がない。
 けれどもしも少しでも知り得ていたなら。
 僕は今、こんなにも後悔せずにすんだのだろうか。


 興味がないからと、君がいた世界を捨て、無関心を装い彼女の世界さえ突っぱねて、しかし見知らぬ世界に独り放り出されたとき僕が望んだのは、捨てたはずの、拒んだはずの世界。
 執着しなかったんじゃない。しないようにしてたんだ。
 その先に一歩踏み出すのを躊躇っていただけなんだ。
 僕はただ――傍観者でいたかったんだ。僕には関係ないと、知らない振りをしていたかっただけ。
 僕の身体中に巻き付いた、がんじがらめの鎖に。そこに繋がれた確かな枷に。
 踏み出す恐怖も踏み込まれる恐怖も、僕を苛むすべてのものに目をつむって、耳を塞いで。


 ――僕は永久凍土。
 ささやかな霜でこの身を守り、冷たい空気で棘を刺す。吹き抜ける風なんて要らない。あるのはただただ薄っぺらい虚栄心。突き破る意志だって、結局は届かずじまい。
 この世界は僕の心象風景そのもの。
 誰もが住み着かないこの地に、彼女だけが居る。
 ただ、あなたがそこに居る。


 あなたは春の雨。
 凍った僕の大地をしとやかに濡らし、染み込み、雪解けを告げる。そして芽吹くのはちいさなちいさな芽。
 あなたは、僕を溶かす、春の雨。


 君は、春風。
 澱んだ僕の世界を気ままに走り抜ける。雲を蹴散らし梢を鳴かせて、僕に始まりの音を運び、覚醒を促す。
 君は、僕の春風。


 こんなに早く別れてしまうのなら、もっと東海林と話をしてみたかった。
 相容れないのにどこか心地良い、あの風に吹かれていたかった。
 そう、思ってしまうのはやはり僕の後悔に違いなくて。
 ねえ、東海林。
 僕はやっぱりヒーローになんてなれないよ。
気の利いた言葉ひとつ言えない僕は、そんなもの務まらない。
 あのとき聴いた言葉の通り、お前が僕のヒーローだったらよかったのに。心からそう思う。
 それでも――彼女が呼んだら、返事くらいは、してみようと思うんだ。
 たとえ何ひとつ出来なくても、彼女がただ居てくれたように、ただ、近くに。
 それが彼女との約束だから。
 お前と交わした約束も、果たせるときがくるかな――。







 その日の空は珍しく、水色ではなかった。
 錆びついた鉛色の雲が、灰霞の天を占拠して重たく揺れる。それはまるで、不穏を暗示するようで。
 この世界に来てから初めて目にする曇り空を僕は興味深く眺めて、部屋のなかへと視線を移した。
 リーレイは上機嫌で荷物を整理している。
 微かに鼓膜が捉えるのは、彼女の鼻歌だろうか。床に敷かれた厚めの絨毯のうえに、衣服や細々とした日用品が散らばる。出掛ける支度をするのは一向に構わないんだけれど、リビングじゃなくて自分の部屋でやってくれないだろうか。別に何があるというわけでもない……ないけど、なんとなく目のやり場に困る。
 仕方なく僕はソファに腰掛け、意味もなく窓の外を眺めていた。
 灰色の空に目を遣りながら、リーレイに尋ねる。

「会うのは、久しぶりなの?」

 間をおかず、後ろから彼女の溌剌とした声が返る。

「ええ! 二年ごとに会う約束してるの。今は遠縁のおばさんにお世話になってるわ」
「ふぅん。……どんな子?」

 それはただ単に会話のひとつとして訊いただけだったのに、何故かリーレイはえらく反応した。

「葉月、私の妹に興味があるの!? ダメよ、だってファニーはまだ十二歳なのよ! そ、そりゃ歳は関係ないかもだけど……やっぱりダメ!!」

 力説するリーレイを僕は呆れた面持ちで振り返る。頬に朱をさした彼女をしばし見つめて、視線を戻す。

「……何の話?」
「い、妹の話よ」

 少したじろぎ気味にそれだけ応えると、何もなかったかのようにリーレイは再び荷造りを再開した。

「あの子の髪はわたしと違って、綺麗な金髪なの。太陽みたい。瞳の色は同じなんだけど」
「へぇ」

 リーレイは金髪に憧れてるのだろうか。
 僕は彼女の長い亜麻色の髪をちらりと見遣る。

「……僕は、その色、綺麗だと思うけど」

 明るい金髪よりずっと良い。派手な色はあまり好みじゃなかった。
 リーレイは驚いたように顔を上げた。明るくはないけれど、静かに落ち着いた亜麻色がふわりと揺れる。

「ありがとう」

 あ。また。
 彼女の微笑みが、僕を溶かす。
 僕はそれを眩しく見つめてから、急に気恥ずかしくなって咳ばらいをした。
 そんな僕にリーレイはくすりと笑う。

「でもわたし、葉月の髪も好きよ」
「普通の黒髪だけど」

 別に綺麗でもない。
 もしかしてこの世界で黒は珍しいのだろうか。

「違うわよ、色じゃなくて……ううん、色もかしら? とても細い鋼みたいで、夜なんか特に綺麗よ」
「……そう」

 果たして髪の表現に「細い鋼」なんて言葉が合っているのか非常に気になるけれど、僕は無難に話題を変えた。

「……名前、ファニーっていうんだ」
「妹? そうよ。明るくて、しっかり者で、とっても可愛いんだから。あ、でも手なんか出したら怒るわよ」
「だから何の話?」

 ナップザックのような大きめの鞄に、せわしなく荷物を詰めていくリーレイを見ていると、ふと目に入った。
 円形の、金属の縁飾りがついた鏡。彼女の魔力石でもあるブローチが、変化したもの。見た目が違う他は、あれから何の変わりもない。
 結局、あれは何だったのか。

「それも持っていくの? その……鏡」

 お土産にするのだろう、ドライフラワーを丁寧に包む手を止めて、リーレイが鏡に視線を移した。その眼差しはまるで宝物でも見るかのよう。

「うん。持っていくわ。元々、肌身離さずにいないといけないものだし」

 それに、と彼女は目を細めて言葉をつぐ。

「私が、いつも傍に持っていたいの」
「……そう」
「わたしがいない間、葉月ひとりで生活出来る?」
「出来るよ」

 衣食住のうち問題なのは食だけだ。出来はともかく、食べられるものは作れると思う。料理はそれほど苦手でもないし。ただ、自分で自分の作ったものを食べるのが酷く虚しいから、普段はあまり料理しないけど。
 リーレイはそれでも不安そうに、僕へ言葉を重ねかける。

「戸締まりと火元に注意するのよ」
「それは……まぁ」
「危ないことしないでね」
「…………」
「寂しくなっても、泣かないでね」
「…………」

 無言で溜め息を零す以外、僕に何が出来るだろうか。というか返す言葉が見当たらない。
 本ッ当に、この人は……。
 リーレイは少しだけ目を伏せて、

「でも、すぐ帰ってくるから」
「……久しぶりなんだからなるべく一緒にいたら?」

 大事に想ってることくらい、聞かなくても判る。そんな妹に久々に会えるのだから、僕のことは気にしなくてもいいのに。
 それに、と僕は心中で付け足す。僕は単なる居候でしかないのだ。居候どころか、……ひも状態に近い……。
 けれどリーレイは肩を落として悄然とすると、

「葉月は酷い人ね」
「…………なんで?」

 僕がほとほと困って尋ねても、彼女はそっぽを向くばかりで答えてはくれない。そのまま作業に没頭してしまう。

「…………」

 当惑するばかりの僕は、仕方なく再び窓の外に目を遣った。
 空を覆う灰色は、濃くもならず薄れることもなく、針葉樹の群れを弄ぶように斑模様を描く。とうに見飽きたはずなのに、いざ変わるとあの薄っぺらい水色の空が恋しく思えてくるのは、ここが僕の心象風景とそっくりだと気付いたからだろうか。
 大きくはないけれど決して無視は出来ない、この暗雲は、変化を怖れる僕の不安を表しているようだから。
 ――彼女の魔力石が形を変えたあの日から、僕の左目は疼きを止めない。
 怖れているのは、変化ではなく。
 僕に訪れるはずの、未来そのもの。




 鞄に結わえられた丈夫そうな紐を、彼女は肩にかけ、外へのドアを背にして綺麗ににっこり微笑んだ。ちいさな玉飾りが付いた茶色の上着は、よそ行き用なのか、初めて見る服だった。

「それじゃ、行ってきます」
「気をつけて」

 手短に、僕はそれだけ言葉をかける。
 彼女は少しだけその深緑の双眸を細めたけれど、すぐにいつも通り、ふわりと微笑って僕に問いかける。

「ちゃんと待っててくれる?」

 その言葉にやや面食らった僕は、てっきり「悪戯しちゃダメ」的な意味だと思い、

「どうして? おとなしく待ってるけど」

と言ったのに、リーレイは何故かむくれた。そのまま形の良い唇を尖らせ、

「もう。葉月なんてキライよ」
「え……あ、そう」

 口にした台詞は今度こそ、彼女の機嫌を損ねたようだった。
 鞄の紐をぎゅっと握って、眉根を寄せて、僕の顔をきっ、と見上げてくる。

「……葉月は本当に酷い!」

 ほのかに頬を染めて彼女は僕を詰った。
 ああ、今まで「酷い」と何回言われたかな。そんなとりとめのないことが頭をよぎった。
 ――本当に、本当にどうしていいか判らなくて、ただ彼女の潤んだ瞳を見つめるばかり。きっと僕は情けない顔してるんだろう。だって、理由が、脈絡が、全然、判らない!
 不意にリーレイが視線を斜め下に逸らした。ぽつりと、聞き取れないほどのかぼそい声で、呟く。

「君は、本当に酷い人だわ」
「…………どうして」
「言わせるのね。やっぱり酷い人」

 そう言って顔をあげたリーレイは、とても――とても哀しそうで、寂しそうで。僕は思わず息をのむ。
 けれど、それは一瞬のうちにかき消えてしまった。
 そこに泣きそうだった彼女はもうなく、代わりにいたのは、凛と輝く微笑みをたたえた彼女の姿。
 幻? 錯覚?
 僕は目をこすった。たった一瞬、だからこそ焼き付いて離れない。
 痛みで言葉が出ない僕に、彼女は告げる。

「名前」

 僕を静かに染め抜く、春の陽射しのような、いつもの眼差しで。

「わたしの名前、まだ一度も呼んでもらってないわ。ねぇ、忘れちゃった?」
「そう……だっけ」

 いたずらっぽく笑って首を傾げるリーレイに、やっと返せた台詞は驚くほど声がかすれていて、僕は急に気恥ずかしくなった。慌てて目を逸らす。
 いや、逸らそうとした。

「……何」

 逸らそうと、背けようとしたはずの顔は、彼女に阻まれる。華奢な白い指が、僕の頬をおさえている。

「いつもそうやって、わたしから目を逸らすの」
「…………」
「今日くらい、逸らさないで、ちゃんと見て!」

 その語調は、知らぬ振りなんて許さないほど強く、そして鋭く。
 ただただ言われるがままに、僕は彼女を見る。ごく間近にある彼女の相貌。瞳のなかの僕と目が合う。深い森にひとり佇む、僕自身に。

「名前、呼んでくれないの?」

 彼女の声はさらりとした清水のよう。今はいくばくかの寂寥が混ざって、それが僕の鼓動を急かす。
 早く、早くと。
 僕の心の蓋をノックする。
 そこに、あるのは――仕舞われているのは。ひそかに、だけど確かに存在するのは。
 きっと、気付いている。
 僕の心の底に根付いた花の蕾に。
 僕は、気付いている。
 頬に触れたままの指がそっと滑る。涙のあとのように、優しく伝う。それは酷く儚い。
 掴まないと溶けて消えてしまいそうで。
 今すぐにでも。
 泡沫の逢瀬に僕は掌を伸ばす。
 いつもは彼女から握られる、その手。
 臆病なほど細心の注意を払い、傷付けないようにと、彼女のそれに僕のそれを重ねる。
 温度差があった温もりは、次第に融け合う。
 解けて、溶けて、融けて、そっと。
 ふたりぶんの指先が辿り着くのは僕の唇。
 ――あなたは知っているでしょうか。
 どこまでも薄い水色の空に、氷結仮面を被った湖、寡黙な針葉樹の森。実りのないこの大地の奥の奥、忘れ去られた場所に、一輪の花が蕾をつけていることを。
 着実に、ほころんでいることを。
 ああ、だけどまだ探さないで。探しに行かないで。
 いつか咲いたら、必ず見せるから。
 あなたが色付けた花弁が何色だったか、きっと教えるから。
 花ほころぶ春には、きっと。
 薄く紅をはらんだ指先を唇に押しあてる。
 分かち合う秘密のごとく。静かに、ひそやかに。
 きらめく深緑の瞳を真正面から受け止め、絡めた指で今度は彼女の唇に触れた。
 僕の唇にあてたその指で、微かに吐息をもらす桜色のそれをなぞる。
 指先に移した僕の温もりを、彼女に乗せるように。
 ――少し屈めば口づけが出来る距離で、けれど僕らは互いの指でそれを埋め合った。
 唇から指を離す。絡めた指に、重ねた手に、さよならを告げる。
 彼女の手はほんの少しだけ名残惜しそうに、はらりと下げられた。
 自分の手を目で追うように、彼女は俯いた。

「……いってらっしゃい」

 沈黙という名の世界を破ったのは僕の方だった。抑揚なく、送り出す言葉を吐く。
 彼女はぴくりと肩を震わせ、もう何度言われたか判らない台詞を僕にぶつけた。

「……もう、酷すぎる」
「ごめん」

 それしか言うことが出来ない僕は、まだ彼女の感触が残る指先を手持ち無沙汰に背中へ隠す。
 流れる亜麻色を耳にかけ、顔を上げた彼女はすでにいつも通りの綺麗な微笑みで。毅然と背筋を伸ばして前を向く。
 鞄を肩にかけ直し、

「帰ってきたら、続きするからね」
「…………」

 硬直する僕などお構いなしに、ふんわり笑い、背を向けて外へのドアを開けた。
 熱っぽい身体に外の冷たい空気はとても心地良い。
 見遣ったその先には相変わらずの薄色天幕。限りなく引き伸ばした水色。空を目指して突き破る針葉樹の群れ、静かな湖畔。
 もう何度も目にした、彼女の世界。
 そして、僕の世界。
 彼女がくるりと振り返る。亜麻色の髪がなびく。

「いってきます」
「いってらっしゃい」

 彼女は跳ねるように外に出ると、もう一度僕に手を振って旅路へと向かった。
 僕はただ彼女の背を見送る。見えなくなるまで、ずっと。




 ――それっきり、リーレイは帰ってこなかった。



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