3.くっつかないでください移ります変態が


早朝6時。芭蕉の起床時刻だ。
日和高校から家はそれほど離れていないからそこまで早い電車に乗る必要はないのだが、以前偶々芭蕉にのみ変態である曽良と同じ車両に乗り合わせて痴漢されて以来、早めに出勤するようにしている。
しかし早く行ってもする事と言えば授業の準備か読書くらいなもので、正直職朝のある8時までずっと暇だし、いくら防衛策だとしても少しでも曽良を意識している自分が何より嫌だった。

(…ていうかあの日が偶々厄日で、厄が厄(=曽良)を呼んでああなったかもしれないし、別に前くらいの時刻の電車に乗っても大丈夫だよね)

そう考え方を改め、芭蕉は注いだばかりの珈琲を口に運んだ。
久しぶりにゆっくり過ごした平日の朝はとても穏やかだった。

************

というわけで、今日はラッシュ時刻よりは早めの電車に乗る。それでもいつもより混んでいる車内は小柄で細身の芭蕉にはなかなか息苦しいものだった。
いつもの駅まで耐えられるだろうかと不安に思っていると急に車体が傾いた。いつもはしっかりと手すりに掴まって何とか耐えていた急カーブだ。
すっかり油断していた芭蕉は思いきり後ろによろけて後ろにいた人に雪崩れるように凭れ掛かってしまった。しかも壁に近かったせいで、恐らく相手の背を壁に押し潰す形になる。
「す、すみませ…」
慌てて首を捻って相手の顔を窺うと、それは今やすっかり見慣れた端正な顔立ちの青年。
あっ、と驚嘆の声が出たと同時に彼のウィスパーボイスがそれを遮った。
「おはようございます、また同じ車両の上に今回は芭蕉先生から僕に引っ付いてくれるとは…やっと素直になってくれたみたいですね、嬉しいですよ」

(最悪だ…)

芭蕉は自分の考えの甘さと不運さを呪った。
相変わらず酷く甘ったるい彼の低音ボイスを耳元で聞き、一気に顔が熱くなっていくのが分かる。こんなことで体温が上がるなんてそれこそ恥ずかしい。
満員電車ではないが少しでも動けば周囲の乗客に迷惑を掛けてしまいそうな微妙な混み具合のせいで、なかなか彼から離れられない。というよりしっかりと腰を抱き締められて離れることができない。
「ちょっ、もう大丈夫だからいい加減離してよ、河合くん!!」
「何言ってるんですか、貴方から引っ付いてきたんでしょう?僕はその愛をしっかり受け止めているまでですが」
「さっきのは愛も何もないただの事故だよ!!ていうか君がいるって全く気づかなかったし…って言った傍からくっつかんといて!変態が移るからぁ!!」
身を捩ってやっと曽良の手から逃れると、彼はやはりなぜ芭蕉がそんなにも嫌がるのか理解できないといった顔をする。
「照れる必要はありませんよ?僕は貴方から与えられるものならどんなものだって絶対受け止めてやりますから」
「照れてない!ていうか君の支えがなくても私は大丈夫だから!…っ、うわ!?」
今日の運転手は運転が荒いのか単に下手なのか、いつもは普通に耐えられるカーブですら芭蕉はよろけて、再び曽良の腕の中に帰還した。
先程堂々と宣言した直後だったのでいたたまれなくて曽良の顔を見ることが出来ない。
しかし曽良はこれを、照れ隠しなのだと認識して芭蕉の華奢な体を優しく抱き締めた。
「…ほら、やっぱり僕が抱き締めて置かないと満足に立つこともできないじゃないですか」
「…ち、違うもん…今日は運転手さんの運転が荒いから…」
「素直じゃないですねぇ、もっと僕みたいに自然体で接せないんですか」
「君は寧ろ自重を覚えるべきだよ!」
抱き締められる体が熱い。耳の先まで熱いのを人の熱気のせいにして、こんな些細なことで曽良を受け入れてはならないと芭蕉は懸命に脳に言い聞かせる。

次の駅で電車内はついに袋詰め状態になった。芭蕉は息苦しくて呼吸スペースを確保するために曽良と向かい合い、無意識に彼の胸板に肘をついて顔を埋める形を取っていた。
それでも背中からの圧迫が苦しくてヒーヒー唸っていると、突然体がグルンと回転した。
吃驚して曽良を見上げれば彼は芭蕉を庇うような体勢になって抱き締めている。こんなに人がいるのによく体勢を変えられたものだと、曽良の力に一驚した。

(もしかして私が苦しそうにしてることに気付いて、わざわざ場所を入れ替わってくれた…?)

始めて見せる曽良のまともな紳士ぶりに感心して少しだけ見直していると、当の本人がそれに気付いたのか無表情の中に含み笑いらしきものを浮かべた。

「この体勢の方が芭蕉さんの匂いを自然に嗅げますから」

一瞬意味が分からず唖然とした芭蕉だったが、曽良が己の首に顔を寄せたことで『彼には自分を庇うという思いやりは毛ほどもなく、ただ欲に負けただけだったのだ』と把握した。そしてほんの少しでも見直してしまったことを激しく後悔する。
やっぱり紳士の皮を被ったこの変態だけには絶対心を揺らがせないようにしようと固く誓いながら、彼からの痴漢行為に耐える朝の通勤電車内の芭蕉であった。


くっつかないでください移ります変態が

2012.11.14

back


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -