心配の種(原田さん/幕末)

なんでわざわざ面倒臭い素人に手を出すんだ、買って済ませりゃいいものを。

そんな呆れ交じりの土方の苦言を「好いた惚れたは道理じゃねぇんだよ」と笑って片付け、原田は屯所から二町下った所にある商家へ急いだ。

大通りを一つ東側へ入った小路の店先を見やれば、待ちわびたそぞろ顔でなまえが立っている。

髷に巻きつけた赤い縮緬布が、艶のある黒髪に映えて初々しい美しさを表していた。

原田をみとめて恥かしそうに笑い、二、三歩近づく様子がいかにも好いている風を滲み出していて愛くるしい。

「それじゃ夕刻までお借りします」と店内にいる親御さんに軽く頭を下げる時、チクチクと良心が痛みはしたが。

そこはそれ、小路から離れてしまえば眼前のなまえと向かう先で待つ楽しみが心を占めた。


抜け路地の中ほどにある盆屋の暖簾をくぐり、襖の開いた部屋が二つあるのを目端で確認して草履を脱ぐ。

それをなまえがそっと端へ寄せて揃え、原田に続いて部屋へ入った。

ほどなくして音もなく襖が開き、湯飲みの二つ載った盆がスッと差し出される。

女将は廊下から部屋の中や客の顔を伺い見るような不粋はせず、低頭のまま待っていた。

原田が湯呑みを受け取って代わりにちょんの間の代金をそこへ置けば、また音も立てず襖を閉め、立ち去ってゆく。

その遣り取りの間、日中の逢引を恥じ入るかのように終始俯いていたなまえだったが。

熱い視線を受けて促されると、枕の横で帯の紐端を彼に預けた。



なまえが交わした熱気の余韻を体の奥に感じながら、福良雀に結んだ帯を背負い直していると。

片肘を付いて寝転がっていた原田が、

「もう親御さんだって分かってて承知で送り出してくれてるんだ、お前だってちゃんとしてぇだろ」

と最前からの返事を催促してきた。

なまえは答えずに黙ったまま袷と帯を整え、うなじから零れた後れ毛を髷に押し込むと、障子窓を少し開けて風に当たった。

左之助さんは野分のような人だ。

三日と空けず親が小商いしてる店に顔を出し、品物を買うというよりは自分が目当てだと分かる態度で話しかけ。

祭りがあれば誘い出し、葉が色付けば紅葉狩り、桜だ蛍だ雪見だとその度に連れて行ってくれた。

嬉しくて楽しくて、彼が引っ張り出してくれる日は朝から落ち着かなくて、母親に諌められるほどだった。

けれど、重ねるのが唇だけじゃなくなってから、彼がお侍さんだという事をつくづく実感するようになったのだ。

例えばここで他の部屋を借りている人が帰りしなに部屋の前を通る時など、それがどんな体勢で何をしてる時だろうと片手が刀に伸びる。

今も寝そべっている床の脇には大小が二つ並んでいて、私の返事を待ちながらその鞘の下緒を弄んでいる。

商人の家に育った自分に、そんな違う生き方をしてきた彼のお内儀が務まるだろうか、と不安が膨らんでしまう。

それに、彼は忙しいからぽつんと一人家で待つ日が続くんじゃないだろうか。彼のいない昼間、何をして過ごせばいいんだろう。

左之助さんは毎晩ちゃんと家へ帰ってきてくれるかな。

彼に限って無いとは思うけど、もし余所にいい人が出来たら……帰りが遠のいたらどうしよう。

心配事が次々に浮かび、嬉しいのに素直に返事が出来なかった。

「親父さんの店もお前の事も、新選組が……誰より俺がしっかり守る。約束する。だからなまえ、俺んとこへ来い」

起き上がった彼は窓辺に立つなまえを後ろから包むように抱きしめ、整えられた髷に唇を寄せて囁いた。真剣だった。

「そんな事で迷ってるんじゃないの。ただ、身分が違うから……。それに色々心配で。左之助さん、格好いいし」

「丁稚だって奉公してるうちに商いのいろはを覚えるんだ、最初の内は家との違いにまごつくかもしれねぇが、じきに慣れるさ」

なぁ、来いよ。お前がいりゃ浮気なんてする訳ねぇだろ。

そう低く優しい声で言われて、いつまでも難しい顔をしている事なんて出来るはずがない。

なまえは胸元に回された彼の腕に自分の手をそっと重ね、小さく笑んでこくりと頷いた。



うんと言わせたからには鉄は熱いうちに打てとばかりに、原田はなまえを送り届けると早足で屯所へ帰った。

近藤さんへ報告かたがた話を通せば、その日の内に屯所中へ伝聞し。

夕餉の席は前祝の様相を見せ、受ける杯まわすお銚子ことごとく空にして、酔い潰された彼はそのまま板間へゴロリと横になった。

「あー呑んだ! もう動けねぇ」

天井の木目が笑って見えるほど陽気な気分で、床を鼓に指でトトンと調子を作って小唄を口ずさむ。

珍しく最後まで付き合っていた土方はその隣りに胡坐で座ると、額のシワを伸ばしてくくっと笑った。

「さんざ女をこましてきやがったお前もとうとう年貢の納め時か。裃は近藤さんのを借りるとして、杯はどうする。買うか」

「いや、それも借りるあてがあるから大丈夫だ。なぁ、土方さん。祝言までちっと死番から外してくれねぇか。行かず後家にさせちゃあんまりだ(※)」

「分かった。ところでお前、間男にだけは気をつけろよ」

「なまえはんな事しねぇよ、俺の相手だけでクタクタになってそんな気は起きねぇさ」

「言うじゃねぇか。まぁそっちに励むのもいいが仕事も気張れよ」

「ああ、今まで以上に頑張るさ」

お互い酔い任せに笑いながらもそこは屋台骨を自負する同士。家を軋ませるわけにはいかない事など重々承知し合っていた。

やがてそれぞれの私室へと一人去り、二人去り。最後の一人になった左之助は、まだ天井を見つめたままポツリと呟いた。


「間男……だけはいただけねぇな」


あの店にだって、俺以外になまえ目当ての客が何人いるか知れたもんじゃねぇ。

男ってぇのは人の物なら諦めるかといえば、そうでもない。余計にそそると色めく奴だって多い。

一盗 二卑 三妾 四妓 五妻

俺の嫁はつまり、他からみりゃ一番美味しい“余所のかみさん”だ。加えてこの稼業。家を空けてる時間が長い。

あいつに限って……とは思うが、女が余所へ転ぶ時の台詞は「寂しかったから」と相場決まってる。

大体、今だってあんなに可愛いんだ。俺と一緒になって段々艶も色も滲むようになってみろ、他の男が放っておくわけねぇ。

……昼間は実家へ帰すか。店の手伝いをすれば暇もねぇし、変な虫も親御さんが払ってくれるだろ。

あとは毎晩俺が励めば、ふらふらっと魔が差す事もないはずだ。

原田は盆屋でなまえの唇から漏れた熱い吐息を思い出しながら、夜が更けるまであらぬ心配の種をプチプチと潰し続けた。



晴れて契りの杯を交わした後。

彼が実にまめまめしく家へ立ち寄り、夜も真っ直ぐ帰宅した事は言うまでもない。

三惚れという言葉の通り、仕事と町と妻を愛し励む原田を見て、土方は満足げに目を細めたという。




終。


※行かず後家…婚姻の届けを出してから祝言までに婚約者が他界し、嫁がず後家になった女性の事。
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