69 一番
後から振り返るとあそこが分岐点だったな、と思う瞬間がある。けれど大抵、気付いた時にはもう選んだ後なのだ。
斎藤は千恵の体から掛け布を取ると、湯で絞った手拭いで丁寧に血を拭っていった。すぐに布も湯も真っ赤になった。
湯を替える度、溝に赤い湯を捨てるのを躊躇った。この血は千恵の体についさっきまで流れていたものだ。
そう思うと、溝なんかに捨てるのは忍びない気がした。何度も何度も溝に流して、その度に胸が痛んだ。
指や爪の間に入り込んだ血は拭いにくかった為、一本一本口に含んで綺麗に取り去った。
心臓がドクンと鳴った気がした。きっと、羅刹のようだと感じたからだろう。
髪も肌も手の届く所は全て綺麗にし終わった頃、総司が様子を聞きに来た。
「まだ意識が戻らない。恐らく失血が多かったせいだろう。怪我は……もう塞がっているから心配ない」
「分かった、伝えとく。これから広間で話を聞くつもりだけど、はじめ君はどうする?」
「意識がない状態で一人には出来ん。悪いが詳細は後で聞く。火鉢を借りていいか? 千恵の体が冷たい」
「なら、火鉢じゃなく人肌で温める方がずっと早い。朝までひっついててあげなよ」
軽く頷いて襖を閉めた。総司にからかっている様子はなかったし、真剣に良案だと受け止めた。
着物を脱いで布団に入ると、ひんやりした肌に身を添わせた。少しでも温もりが多く移るよう、足を絡ませる。
……随分色気の無い抱擁だな。頼むから早く目を覚まして、いつもみたいに恥ずかしそうに笑ってくれ。
そんな願いを込め、顔にかかった髪を避けて頬に口付けると、その顔を眺め続けた。
愛している。もう決して誰にも傷つけさせたりしない。そう固く固く心に誓った。
「は……じめ、さん? おかえりなさい。私……一体!? ああ、そっか……はぁ」
明け方、目が覚めてゆっくり瞼を開けると、はじめさんがじっと私を見ていた。
お帰りなさい! と元気に体を起こそうとしたら、背中が引き攣るような感じがして、また突っ伏す。
……もう痛くないから忘れてた、私斬られたんだっけ。でもなんで二人とも裸? え……はじめさん??
はじめさんは大きく目を見開くと、私の手を取って口付けた。その手が…………震えている。
「やっと起きたな。酷い目に遭わせてすまなかった。……心配した。もうこんな思いは二度とごめんだ」
「同感です。でも、心配してくれてありがとう。まだ治ってないなんて……初めてです」
「だろうな。普通なら致命傷になっていただろう。千恵が鬼で本当によかった。ご両親に礼が言いたい位だ。
だが、ご存命なら謝ってもまず許してもらえないだろうな。本当に辛い思いをさせて悪かった」
苦しそうに眉を寄せるはじめさんを見て、慌てて手を握り返した。
「そんなっ、はじめさんは何もしてないじゃない! 謝るなんて……嫌です」
「だが実際こうやってお前は斬られ……守ってやれなかった」
「一日中そばについてるなんて出来ません。確かに二度とこんな目には遭いたくないけど、もし遭ったとしても、
そんな風に自分を責めてなんて欲しくない。私が選んだの。はじめさんが私を選んでくれたように。
私も、はじめさんとここに居るって選んだの。後悔してないし、したくない。
身近に危険があっても、刀の傍でも、はじめさんが居れば平気なの。じゃなきゃ結婚してません!」
「ああ、だから尚の事、自分の不甲斐なさが許せない。一番守りたいものが守れなくて何が夫だっ!!」
「はじめさん……」
声を荒げる彼を初めて見た。痛みに耐えるように顔を歪め、私の手を固く固く握り締めている。
息が詰まるほどの切なさと愛情が伝わって、叶わないけれど彼を抱き締めたい、と思った。
私がはじめさんの一番守りたいもの。一番……。
「なら……愛して下さい。謝って自分を責めるんじゃなくて、一緒に生きて私をずっと愛して下さい」
「それだけでいいのか? 本当にお前は……ああ、愛してる。愛し続けよう。一生涯お前だけが俺の愛する女だ」
はじめさんの顔が近づき、目を閉じた。何度も何度もキスをする。ずっと手を繋いで。何度も。
やがてはじめさんは少し困ったような顔で笑った。
「抱き締められないのが残念だ。抱けないのも……残念だ」
いつの間にか日は昇り、障子越しの優しい光が二人の肌を照らす。
急に恥ずかしくなってポスンと布団に顔を埋めた私の耳元で、はじめさんはクスクス笑っていた。
昼過ぎには座れるほど回復したけれど、不思議と誰も部屋に来なかった。
膳を運んできた千鶴ちゃんも、部屋の前に置いて去ってしまい、どうしたんだろう? と思いつつ二人きりで過ごした。
日暮れ頃にはもう傷口は一本の線を残すだけになり、改めて自分の血の凄さに驚かされた。
「本当に治っちゃいましたね。私、こんな大きな怪我をしたのって初めてだったから……びっくり」
「ああ。でも血を失ってるから、きっと歩くのはまだ難しいだろう。当分は無理せず休め。寒くないか?」
「寒くないけどくっつきたいです。フフフ、今日は怪我人だから遠慮なく甘えられて嬉しいな」
「はぁ、やっぱりまだ遠慮してたのか。二人きりの時くらいは遠慮するな」
怪我の功名? 一日中はじめさんを独占して、大事にされて、ちょっぴりお姫様な気分を味わった。
結局夕餉も部屋で食べて、夜は手を繋いで布団に入った。もう大丈夫。体と一緒に心の傷も治ってしまった。
けど何となく、治さなくちゃいけないのはみんなの心の傷なんじゃないかなって思った。
きっと気まずそうに目を伏せるだろう面々を思い浮かべ、鬼でよかったな、と思った。
朝になったら元気に笑って、もう大丈夫って皆を安心させてあげなきゃ。
繋いだ手が温かくて、幸せな気持ちで眠りについた。そんな私をはじめさんがずっと見つめていたと知らず。
失いかけて初めて、千恵の存在がどれほど大きく心に占めているか分かった。
好いて愛して妻にして。それでも常に優先させるべきは組織だと思い、隊に務めてきた。
新選組を信じ、刀と腕を信じ、武士としての道を真っ直ぐに突き進むものだと思っていたのに……。
いや、今もこれからもそれは変わらない。変わらないが……もしいつか、どちらか一つを選べと言われたら。
俺は……お前を選ぶかもしれんな。
そんな日が来ると思いたくないが。この繋いだ手を離してはいけない、そんな気がした。
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