94 引越しの時

東本願寺の南側に新しい屯所が建立された。本願寺の潤沢な資金と早く出て行ってほしいという切なる願いで、

短期間のうちに、非常に立派な屯所が出来上がった。鬼達による被害は千鶴の顔を曇らせたが、

あの襲撃以後、その瞳に消えることのない光が宿った。けして揺るがない意志も。



「失われた命を取り戻すことは出来ないですけど、償いの為にも、怪我で苦しむ隊士さん達の為にも、

 私に医術を教えて下さい。元々医者の娘ですから多少の心得はあります。どうか、お願いします」

羅刹を見て震えてたガキが、いつの間にか女になりやがったな。十九か、本来ならそろそろいい頃合なんだが、

相手の平助が衛士でいる限り、こいつの想いが実ることはない。ないのにこの目は……本物だ。

土方は、襲撃の夜連れ去られたはずの千鶴が一人帰って来た時のことを思い出した。

通りがかりの人に助けてもらったと言っていたが、ただの町人が鬼に敵う訳がねぇ。

恐らくは偶然だろうが、平助が助けたんだろう。そして、互いに分かったんだろう。……薄れぬ想いを。

「ちっ、仕方ねぇ、山崎の下につけ。指示には必ず従え。一応男って建前で居るんだ、隊士にはむやみに近づくな。

 だが……いい目になったな。お前は色々苦労が多いが、芯がある。ったく、江戸の女は強いな。

 千穂といいお前といい、女にしとくのが勿体無い目をしてやがる。見上げたもんだ。

 ……叶うといいな、その想い。あいつの帰る場所、ちゃんと守ってやってくれ」

どんな想いか、誰の場所か。伝えなくても通じ合った。

久しぶりに花の咲いたような笑顔で一礼すると、千鶴は弾むような足取りで部屋を出た。



「なんだか引越しの作業も慣れたね。千鶴ちゃん、これ、そっちの行李にお願い。皆が出立した後、掃除をしてから

 追いかけるから、夕餉は井上さんとお願いね。皆にもそう伝えてある。ここにはお世話になったしね」

「分かりました。手伝えなくてすみません。荷解きを引き受けたので。綺麗にして返したいですよね」

忙しく手を動かし、出立の列を見送った。さて、後ひと仕事! 人気のなくなった集会所に戻る。

広間の床を雑巾掛けしていると、大谷さんがやって来た。離縁状の入った封筒を渡した、あの僧侶だ。

「ご苦労様です。最後まで清掃、ですか。あなたは不思議なお方です。敵を味方に変えてしまう。

 新選組は僧侶にとって、殺生を行う忌むべき存在。ですが、貴女との別れは惜しむ者が多い。

 私もつい封筒を受け取って、途方もない約束をしてしまった。いえ、心配ありません。必ず約束は果たします。

 これは私の独り言ですが……貴女はあの西暦の年に生きていたのではないか、と考えています。

 荒唐無稽ですが、纏うものが違う、とでも言いましょうか。強い力を感じるのです。人と違う力を。

 それを良い方向に使っておられる。彼らは善ではないが、けして悪でもない。あなたは天秤を善に傾ける為に

 導かれたのではないでしょうか。ハハハ、拙僧の戯言ですが。貴女に御仏のご加護を。では、ご健勝を祈ります」

「ありがとうございます。これは私の独り言ですが……本願寺はこの先も戦火に見舞われることなく、

 やがて来る平和な時代にも愛され続ける場所になると、考えています。大勢の人が見に来るような場所に。

 ですからここに手紙を託しました。宜しくお願いします。過分なお言葉本当に感謝いたします」

「ほう! それはそれは、いいお話が聞けました。いえ、聞いたのは御仏だけ。私達は独り言を呟いただけ。

 では、ほどほどで行って下さい。ここは広い。清掃は僧侶の修行でもありますから。私達の分も残して下さらないと」

大谷さんは、悪戯っぽく笑うと広間を出て行った。善に傾ける……か。出来るのかな?



川の流れを変えるには大きな力が必要だが、拮抗した天秤はほんの小さな力で傾く。

千穂の小さな力はすでに天秤を押していた。本人の気付かぬ間に。……心という天秤を。





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