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自分を取り囲む周りの大人が全て部下だという事に気付いたのは、五つの時だった。
それまでは、単に好かれていると、そう信じていた。自分の事が好きだから優しいんだろうと。
「この馬はいいな。毛並みもいいし従順で足も速い。俺もいつかこんな馬が欲しい」
厩で黒毛の牝馬に藁をやりながら、千景はその鼻先を撫でた。
優しい目の馬は侍従の自慢で、時折触らせて貰えるのを楽しみにしていた。
「なら千景様の袴儀の祝いに差し上げましょう。いい馬ですから大事になさって下さい」
「いいのか?可愛がっているんだろう?いつか欲しいと言っただけで、今この馬を望んだわけじゃ……」
「いえ、こんな馬滅多にいません。探していたらきっと元服までかかってしまいますよ?
調教も済んでいるし健康状態も申し分ない。初めての遠乗りにはピッタリです。どうぞお受け取り下さい」
そう言った侍従の目が殊のほか優しかったので、本当に心の底から嬉しさが込み上げた。
「ありがとう、大事にする。ずっとずっと大事に乗る」
面と向かって礼を言うのは恥ずかしかったが、大切な愛馬を譲ってくれた事に素直に感謝した。
翌月、袴儀の日取りが決まった事を知らせようと馬小屋に行くと、同い年の侍従の子供が泣いていた。
なんとなく声を掛けづらくてそっと陰から見ていると、侍従と子の会話が聞こえた。
「僕にくれるって約束したじゃないかっ! 嘘つきっ!」
「聞き分けなさい。千景様が御所望して下さったんだ、差し上げるのは家臣として当然だろう?
先々にはお前の主君にもなられるお方だ。大事に可愛がってくださる事を有難く思いなさい」
「僕より千景の方が大事なのかよっ!」
「はぁ……子より大事なものがあるわけなかろう? 一番大事なのはお前だ。
だが、この里で一番偉いのは頭領様で、千景様は跡継ぎであらせられる。
分かってくれ、あの方は……私よりずっと偉い方なんだ。好かれて損はない」
決して自分からねだったつもりはなかった。好きだから褒めたくなった、ただそれだけだった。
くれるというのに断る理由もなかったし、侍従も嫌々渋々といった風ではなかった。
けれど。自分にあげたかった訳でもなかったんだと、会話から理解した。
いらないと言うべきか迷って立ち尽くしていると、厩から子供が出てきた。
時折一緒に遊ぶその子供は、外遊びの仕方を良く知っていたから会うのが楽しみだった。
でも今は──赤い目に涙を浮かべて千景を睨んでいる。
お互いに、何か言いかけて躊躇った。ごめん、と言えばよかったのかもしれないが、咽で引っ掛かった。
好かれて損はない、という侍従の言葉が耳に残っていて、謝罪の言葉を押し留めた。
ただ睨みながら通り過ぎる相手を、ずっと目で追いかけた。
きっともうお屋敷には遊びに来ないだろう、そんな気がした。
ほんの些細な会話がきっかけで、五歳の千景は友達を一人失った。
袴儀の日、約束通り馬は千景の元に来た。相変わらず牝馬は優しい目をしていたが、手放しで喜べなかった。
今日から自分の物となったその牝馬に藁をやりながら、話しかけた。
「お前がもし口を聞けたら、誰を主人に選んだ? 俺を……選んでくれたか?」
答えるはずもなかったけれど、鼻先はしっとりと湿って温かく、触れているうちに悲しみが少しだけ小さくなった。
千景は寝間で千姫を腕の中に納めながら、艶やかな黒髪を優しく撫でた。
サラサラと心地よいその髪で馬を思い出していたなどと知ったら、きっと怒るだろうな。
軽く微苦笑しながら、千姫の頤に手をかけ、口づけを落とした。
柔らかいその唇はしっとりと湿っていて温かい。
……これもあの馬の鼻先みたいだと言ったら、寝室を別にされそうだ。
自分の想像におかしくなりながら、舌を深く差し込んで、欲情を誘い出す。
これは馬にはしない。当たり前だ、馬鹿な想像は止めにして味わう方に集中せねば。
唇を離して千姫の瞳を覗くと、不思議そうな顔をしていた。
「何を考えてるの? 今の口付け……心ここにあらずだったわよ?」
「ククッ、聡いな。……なんでもない。ただ……お前は口が聞けてよかった、と思っただけだ。
俺の事をどう思ってる? 正直に言っても構わん」
「そうね、傲慢で不遜で身勝手で。……でも強くて指導力があって、本当はすごく優しい。
時々私に過保護で、……愛されてるなって思ってる。勿論私も愛してるわよ?
でなきゃここにいない。こんな事させてないわよ。フフフ、どう? 満足のいく答えだったかしら?」
「ああ、満足だ。礼にお前の満足のいくまで愛そう。何度でも、ずっとだ」
身を起こしての頬に鼻先を擦り付けるようにしながら囁くと、千景は手を肌に滑らせた。
行灯の灯りが美しい女の顔を照らし出す。……千姫もやっぱり優しい目をしていた。
fin.
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