六 


野辺の若草つみ捨てられて 土に思いの根を残す


一九0四年、五月下旬。
緑萌ゆる季節、暖かい日差しが大鳥の屋敷に差し込んでいる。
庭の木々は異国の戦争も知らずに無心に太陽の光を浴びて、日に日に背丈が高くなった。
四月に国中を賑わせたのは、連合艦隊の機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスクを撃沈したという話題だった。父はその記事の出た新聞を握り締め、声高々に我が国と連合の優秀を叫んだ。
しかしながら、その一月ほど後、つい先日のことだった。
屋敷を訪ねてきた軍人が涙ながらに語ったのは兄の死、そして差し出された綺麗な箱の中に汚れた、所々血に濡れたあの湯島天神の守り袋があった。
四月三十日、日本陸軍の第一軍が朝鮮半島に上陸し、国としては露西亜軍を破ったという。兄は勇敢に戦い、そしてそこで体を貫かれ、地に沈んだ。
戦友が語るに、兄はこの守り袋を肌身離さず持ち歩き、戦争に学業成就とは可笑しな話だと笑う者たちに、それに勝る笑顔で「愛する人からもらったものなのだ」と優しく話したという。
父は取り乱し、兄の死を未だに受け止められずにいる。晴天の空の下、呆然と庭に立ちすくんでいた。
俺となまえはと聞かれれば、その日の夜は悲しみに涙を流したが、こうなることはわかっていた手前、心に傷を抱えながらも今日も地に足をつけて立っている。
使用人たちは、「若奥様はお強い方だ」とか「あんなにも立ち直りが早いとは、どこか不自然だ」と様々な噂に熱心なようだった。
だが、心に傷を負いながらもなまえが強く生き続けるのには理由がある。

休日に部屋で本を読んでいた俺は、扉を叩く音に活字から意識を逸らした。

「烝坊ちゃま、お時間にございます」
「わかりました、すぐ表に」
「かしこまりました」

初老の使用人は、部屋に入ることなく用件を述べて立ち去っていく。
兄から譲り受けた車は家の物になっていて、先にそちらに向かったのだろう。
小走りに階段を下りていくと、玄関の下に藤色の着物に身を包んだなまえがいて、俺の姿を見つけて小さく微笑んだ。
心配げに手を取っていた女の使用人に代わってその白く美しい手を取ると玄関の外で待つ車に誘っていく。

「よく晴れましたね」
「えぇ、近頃はお外も暖かく、お散歩日和ですわ」
「散歩だなんて・・・お体に障りますよ?」
「烝さんまでそんなことを言うなんて。少しくらい体を動かすのは良い事だと話したではありませんか」

わざと頬を膨らましたなまえは、緩めに締めた帯のすぐ下をゆっくりと撫でていた。
なまえの懐妊がわかったのは、四月の初旬のことだった。
今は焦燥の淵にいる父も、あの時ばかりは我が国の勝利並みに喜んでいたのを思い出す。兄が帰ってきたら家族が増えているのに驚くだろう、そう涙ながらに語っていたけれど、それが叶うことのない夢だったことは言うまでもない。
病院に向かうなまえに付き添うのは、俺の仕事だった。周囲からしたら兄亡き今、未亡人となったなまえを大鳥家の一員として守ろうとしているのだと、俺の姿は賞賛に値するものに見えていただろう。
しかし、その真意は違う意図。そしてその決意をしたのも、違う意図。
懐妊の知らせを受けた夜、闇夜に紛れて俺の部屋を訪れたなまえが涙ながらに語ったことを俺はしっかりと覚えている。

「貴方には聞き苦しい話やもしれません。主人と過ごした最後の夜、あの人が私にこう言ったのです。最後の夜に君を抱いたことをよく覚えておきなさい。後は君の好きにすればいい、と」
「どういう意味です?」
「あの嵐の夜、私は貴方と体を重ねました。主人はそうなることを見越していたのかもしれませんわ。母となった勘が私に告げているのです、この身に宿した子は主人の子ではなく貴方の子だと。ですが、それが周囲に知られれば大変なことになります。だから、主人はそれが悟られぬように、私と貴方と、そしてこの子を守るために・・・」

腹の子がなまえの言うように俺の子だとはわからない。
それに生まれた時はわからなくとも、成長すれば俺の子か兄の子かが目に見えてしまう可能性は捨てきれない。
危ない橋、これもまた罪。しかし、なまえはそれでも兄の子だと騙し続ける覚悟があるという。
女の覚悟とは恐ろしいものだ、俺はまだ罪に打ちひしがれるというのに。
だが、一日一日と時が過ぎれば、なまえの覚悟は俺の覚悟となっていく。俺が守らずして誰が守るのか。

車の後部座席に並んで座る、使用人がハンドルを切って車がゆっくり揺れないように進み出した。

「十月十日、お子が待ち遠しいですな。今年の暮れにもなれば、元気な産声を爺やの耳にも届くでしょうか」
「ええ。私も待ち遠しいですわ。ですが、どうやらこの子はのんびり屋のようで・・・生まれる頃には新しい年になっているかもしれませんね」
「圭介坊ちゃまもさぞ・・・さぞお喜びになったでしょうに・・・」
「勇敢な主人のためにも元気な子を産んでみせますわ。大丈夫、皆さんついていてくれますし。ねぇ、烝さん?」
「もちろんですとも、義姉様」

まだ目立たぬ腹を、なまえは優しく撫でていた。
運転席に座る使用人は涙を流し、鏡の中に映るなまえと俺に微笑んでみせた。

なまえの腹の子が産まれたのは、一九0五年を迎えてのことだった。
真夜中に産声を上げた元気な男の子。なまえの腕に、父の腕に、そして俺の腕にと渡ってきたそのくしゃくしゃの顔を覗き込む。
口元優しく鼻筋美しく、それは兄というよりなまえによく似ていて。
大きな眼が兄そっくりだと父は言っていたが、その目尻はどこか俺に似ていた。






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