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……じきに雨が降ってきそう、早く帰らなきゃ。
山の谷間から沸きあがるように雲が立ち昇るのを見て、礼は足を急がせた。
今日は陽気がいいから夕方にザァッと来るかもよ、そう母さんも言ってたのに……。
見る間に曇ってきた空を不安げに眺めながら、風呂敷を抱え直して半里ほど歩いたところで、肩にポツリと雨粒が当たった。
「やだ、どうしよう」
今更慌てても、少し引っ込んだ所にある自分の家まで、屋根を借りられる家もない。
案の定最初の一粒はやがて幾つもの雫になり、髪や肩を濡らすほどの通り雨になってくる。
礼は手拭いを広げて頭にのせると、少しでも風呂敷に雨が掛からないよう、前かがみになって家路を急いだ。
けれど雨足は強くなる一方。次第に目を細めないと雨粒が飛び込んでくるほどになり。
とうとう諦めて、近くにあった小さなお堂の僅かな軒下に身を滑り込ませた。
バラバラと大粒の雨が屋根を叩き、泥を含んだ水が跳ね返って裾を濡らす。
いくらか待てばそのうち通り過ぎるだろうと、お堂に張り付くようにして立っていた。
風呂敷の中には、自分の門出を祝って母が染め直させたばかりの、大事な着物が入っている。
きっと今夜中に仕立ててくれるはずのそれを雨に濡らすまいと、体を捻ってお堂の下で止むのを待っていると。
ふいに大きな影が落ち、雨から礼を守るように傘が差し向けられた。
俯けていた顔を上げると、黒い着物を着た男性が涼やかな眼で彼女を見ている。
トクンと跳ねた心臓の音を、僅かに意識した。
「……礼さんか」
そう私の名を呼んだ人は八木さんのお宅に身を寄せている、よそから来た若い男性。
共に使う井戸の端では軽く会釈して、失礼のないようにしている。
けれどその度に、なぜか彼と目が合うと息苦しくなり、たったのひと言も言葉を交わさず立ち去っていた。
今も少し目が合っただけで、勝手に頬が熱くなってしまってる。
「雨に降られてしまって――」
何を言ってるんだろう、見れば分かることなのに。
傘の下、そんな間近で彼の顔を見上げるのが恥ずかしく、足元に打ち付ける雨を見つめた。
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