――それは、何?

不意に、誰かが彼に尋ねた。
部屋には千種の姿しかなかったが、彼には声がはっきりと聞こえていた。
眉を寄せ、またか、と嘆息する千種の両の拳がそっと握り締められた。
硬い表情の裏に滲むのは、苦悩と諦めだ。
千種が答えずにいると彼にそっくりの声は先程より大きな声量で、もう一度話しかけてきた。
――ねえ、千種。それは何?
「……カラスウリ」
面倒に思いながらも、咄嗟に口を突いて出る言葉。
今更、唇を噛み締めたって遅いのだ。
――ふうん、初めて見た。『こっち』には無いのかな。それとも僕が知らないだけかな
「知るか」
鬱陶しそうに吐き捨てても、頭の中の声は一向に気にした風は無い。
いつの間にか目の前には、夜の裏庭にひっそりと咲くカラスウリに被さるように、見慣れぬ和室が広がっていた。
二重にずれた景色が、和室が不意にぐるりと動いて壁にかかる鏡を見た。少年が写る。自分と同じ顔をした少年が、左目を通してこちらを見る。
千種はきつく、目を閉じた。
――おい、いきなり目をつむるなよ。びっくりするだろ
「うるさい」
幻聴が不満そうな声を出すのを、ピシャリと跳ねのける。
――いい加減信じろよ。俺は妄想じゃない。ヤシロだよ
「うるさい、黙れ」
千種は頭を振った。お前は妄想だ、幻聴だ。ヤシロなんていない。おかしなものが見えるのも、聞こえるのも、全部俺のせいだ、と。
しかし、両耳を塞いでも声を遮る事は出来なかった。それは頭の中に直接響く。彼はどうしようもなく、ぐしゃりと髪をかき乱した。
けれども彼を慰める様に、あくまで声は優しく届くのだ。
――大丈夫だよ、千種。君はおかしくなんてない。狂ってなんか、無い
「――っ黙れ!!」
思わず左手が、窓を思い切り叩いていた。
ドンと響いた音をかき消すように、悲鳴のように千種は叫ぶ。
「黙れよ、うるせぇんだよ! 俺に話しかけんな、話しかけんなっ消えろよ!!」

吐息が、零れた。

クーラーが静かな稼働音をさせて、冷たい風を振りまいている。
床に蹲った千種は、ドアの開く微かな音にはっと顔を上げた。
「千種……どうか、したの?」
見れば扉の隙間から、おずおずと母親が顔を覗かせる所だった。視界は正常に戻っている。
大きなその両目が不安そうに部屋の中を見回し、やがて最後に彼に結ばれたことに気づいて、千種はやっと立ち上がった。
そしてカーテンに手を掛けた。シャッと、レールを走った布が窓を覆い隠す。
きっちりと隙間なく閉め終えると、千種は自然な様子を装って振り返った。
「別に、なんでもない」
「でも、何か大きな音がしたようだけど……」
「ああ。ちょっと友達と話してて、喧嘩して」
そう言いながら、視線でベッドの上に放り出された携帯を示した。
母親はそれでもまだ落ち着きなく理由の不自然さを探すように、何度も彼と携帯を見比べていたが、その内に小さく頷くと、無理やり作った笑顔を返した。
「ああ、そう……そうだったの」
「うん。だから、何も心配ないから」
「そう、そうね」
呟き何度も、何度も小さく頷く彼女。
千種はそんな母親の様子をじっと見つめた。
誰も、自分の息子が狂っているなんて思いたくない筈だ。
この会話のおかしさなんて、恐らく気づいていないのだろうと。
そっと視線を伏せながら、彼は引き結んでいた唇を解いた。

吐息が、零れ落ちて行った。


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