ここ、荒川城砦という巨大なスラム街が西京市に築かれたのは、70年ほど前だ。同時期の荒川デモに際して、現在の荒神家を作り上げた初代当主が関係したとも聞く。
何れにせよ、この戸田橋を基盤にしたスラム街は林立する巨大な建物群に4万人とも5万人とも言われる人口を抱え込む、超過密地帯だ。棲み着くのは、貧困層や何かしら事情を持つ者、犯罪者。
そして、<異邦人>。
それが僅かな敷地に、ひしめき合っている。

でたらめに重ね上げられた家々に遮られて、ほとんど陽の光が届かない路地。通りが広くなる方へ足を向ければ、やがて風上から何かの刺激臭や、食べ物の匂いが混ざった空気が漂い始めた。視線を感じて青年が辺りを見回すと、薄汚い布を泥の道へ敷いて得体の知れない商品を並べた露天商が、こちらをじっと見つめていた。いつの間にか商業地域に入ったようだ。道の両側に立ち並ぶ店舗は、上階の重みに歪みながらも口を開けて客を吸いこもうとしている。
「おめめをお探しかい? ぼうや」
不意に、青年を引きとめる声があった。
通り過ぎようとした店から、臓物売りが目玉の詰まった瓶を触りながら、青年の白に覆われた左目を指してにやにや笑っていた。
傍らの瓶の中には保存液に浸された眼球が、方々を向いて浮かんでいる。どれもどんよりと濁っていて、青年はおかしそうにそっと唇を歪ませた。
「結構です」
顔を上げ、男を見つめる青年の白い指が眼帯を撫でた。
「ここには、そこに浸かっている腐りかけた眼よりも、もっと良いのが嵌っていますし」
「……ソォかい。だったら気をつけるこったな。そんなにイイモノなら盗られねェように」
「そうですね。ご忠告、ありがとうございます」
男の揶揄にはまるで取り合わず、彼は小さく頭を下げると歩き出した。
背後で舌打ちが響いても聞き流す、その唇が小さく動く。
――ごめんごめん。なんていうか、似てたから。
――教えない。それに無理だよ。目、云々の話じゃないし
――ああ、もうすぐだよ
青年はまっすぐ前を見据え、見えない誰かに話しかけるように囁いた。
彼はとある目的のため、荒川城砦へ出入りしていた。その場所は、このスラム街の中でも比較的治安のよい地区にあった。何せ居住者のほとんどが異邦人だ。この世界に慣れていない彼らのため、斡旋者の計らいで外的刺激の少ない地区に優先的に住まわせてもらっているらしい。
逸る気持ちに自然と速足になる彼が、曲がり角を過ぎた瞬間、周囲より幾分明るい日差しが開けた一帯を照らしているのを目にした。
目的の建物はすぐに見つけた。
1ブロック先、古ぼけたアパートを出入りする学生服が活発に動いている。風に乗って賑やかな同年代らしき、それらの声が届いた。
彼は物陰に隠れてその様子を伺いながら、そっと左目の眼帯を外した。日の下に晒されたそれは、右目となんら変わらないように見える。
その葡萄色を眇めて複数の人影を見つめた彼は再び、小さく誰かに尋ねた。
――見えた?
――しっかり覚えておいてよ。今日中に確認するんだ。
――頼むよ、千種。


風に流されたその言葉を、聴く者は誰も居なかった。


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