「は……?」
目覚めた自分の左側には、なぜだか大きな猫。真っ黒で細身の。
昨日引き抜いて剥がしてくちゃくちゃになった、あの人の気に入りの、スタッズの打たれたネクタイと濃い緑のワイシャツの上、悠然と寝そべる獣。
やおら起き上がり、固まる僕の横で優雅に伸びをひとつ。それから湿った鼻を首筋に押し付けて、ざらついた舌で頬を舐めて一声「にゃあ」と鳴いて見せた。その、少し細められた金色の目と、顎の毛並みの乱雑さが、彼の表情に見えなくもない。
「先、輩……?」
あっけに取られて中途半端に起き上がっている僕の腹に、ひたりと右脚が乗る。次いで、左脚、後ろ脚。胸板あたりから腰までを覆うようにしてのしかかられる。重いが、鍛えた身体には別段大したこともない。それよりも素肌に滑らかな毛並みと温かい腹が触れる心地良さのあまり、片腕を上げて艶やかな背を撫でた。ちろり、こちらを見上げてぐいぐいとちいさく丸い頭をすりつけてくる。薄く、柔らかな耳がビロードのような感触で素肌に擦れるのが心地よく、何処かセクシーな感覚を呼び覚ます。
「嘘でしょ、何処に隠れてるんです、オジさ」
言いかけて、柔らかくて冷たい何かが口の端に触る。鼻先を押し付けて、べろりと下唇を舐め上げられた。その仕草は普段抱いている男そのものの振る舞い。
改めて闖入者と目を合わせながら、鏑木・T・虎徹さん?とよぶと、気まずそうに長く、返事をされた。
「なんだってこんな……いくら落ち目だからって人間辞める事ないでしょうに」
言ってやると、不満そのものの顔でのそりとぼくから降りて、長い尾で一度腿のあたりをはたいてから丸くなった。混乱した頭ながら、柔らかな毛並みが離れたのが気に入らなくて、手を伸ばして背を撫で上げる。ふかりとした手触りと滑らかな艶のある毛皮が、ぐうと押し付けられて少し嬉しくなった。
「虎徹っていう位だから、虎と言わないまでもせめて虎猫になればよかったのに」
言いながら、ダイニングにうつる。ぼくの腰とは言わないまでも、膝上にちょうど頭が来る位のおおきな黒猫は、後ろ足で立ってドアノブを下げたり、器用に動く前足で引き戸を開け閉てする位はやってのけた。が、高いところにあるフリーザーのドアと水のボトルには白旗をあげざるを得なかったようで、足元をぐるぐるとしているばかり。普段から起きぬけに水を飲む彼に差し出そうとして、コップを手にとって水を注いで、全く手のかかる、と差し出そうとして思い立つ。深めのスープ皿にコップの中身をそのままあけて、少し逡巡した後キッチンを出て、いつも使っているリクライニングチェアの横、小さなテーブルに乗せてやった。後を所在なさげにあるいてきた獣は謝意を表してか足に身体を擦り付けて一声鳴いた後、ひらりと椅子に乗って水に舌をくぐらせた。普段からがさつだが身ぶるまいだけは綺麗な男らしく、堂々と気品あふれる猫っぷり。
「どうしちゃったんですか、ほんとに」
嘆息するとかくん、と小首を傾げてなー、とあいづちを打つように一声かかった。
敷物のように床にべたりと伸びる。長い尾の先だけがはたり、はたりとフローリングを打っている。
似合うだろう、と買ってきた深いグリーンの首輪ははっきりと拒否されて、ヒーロー仲間が贈ってきた赤いウサギの片耳に不格好に引っ掛けてある。着けてしまえば似合うだろうと、人であった時分よりも増した敏捷さに手を焼きながら部屋の隅に追い詰めたら、血が流れる程したたかに手の甲をはたかれた。毛を逆立てて怒る彼に平謝りしたが時すでに遅く、その日彼はリクライニングチェアで丸くなった。ともあれ人であった時分からそのウサギがいたくお気に入りだった先輩は、顎を毛足が寝始めたウサギの腹にのせてまどろむのが日課だ。
「少しは元に戻ろうとする姿勢を見せて下さいよ」
なんだかんだこの人が這いつくばって食事をするところなど見たくなくて、ダイニングの椅子とテーブルを買い揃えてしまった。いくら猫とはいえキャットフードのたぐいを見たら悲しくなるほど食べ物の色とかたちと匂いをしていなくて、かといって惣菜ものでは獣の身体に毒だろうと、彼の食事を作ってやる。ついでに自炊もはじめた。先輩には脂の少ない肉や魚を軽くグリルしただけのものと、匂いのきつくない野菜、自分はそれに味付けをしたものを。無機質に仕立てた部屋に似合わないダイニングセットで平らげる。
人であるなら、彼を這い蹲らせて食事をさせるのや、床やベッドで寝転がっているところに手を出して泣かせることを考えたら、むらむらと昏い喜びがわく。が、美しい獣である彼にはできる限り不便や不快を感じさせたくないと思う。いつの間にか適応している自分と、相手とを思うと、ため息がこぼれた。
変身
カフカ先生萌えをありがとう
だらだらとまたつづけたいところ