目眩がする。
視覚が働かない分を補うように鋭くなった聴覚と嗅覚が癇に障って頭痛を酷くする。子供の甲高い声や道路に巻き散らかされる排ガスやぬるまった空気に混ざる腐ったような水の臭い、そんなものがいっしょくたになって噛み付いてくるような錯覚に、わずかに歩調が乱れる。
半分暗い視界のまま、一歩踏み出そうと脚を降ろした瞬間、バーナビーの身体を衝撃が襲った。世界の上下が曖昧になる。
「ちょ、おま、え」
後ろから伸びてきた細いがつよい腕に、肩口を強く引かれて留まる。
「失礼」
ショックで血が回ったのか、視界の靄がゆっくりと、しかし確実に晴れて行った。振り返り、腕の持ち主に会釈をする。助けられるのは業腹だが、それでもやはり長くヒーローをやっているだけはある、しっかりと鍛えられてしなやかな力を持った男。
「どーしちゃったのさバニーちゃん、なんもないとこで転ぶなんざ、らしくないなー」
「なんでもありません」
「そーお?そうは見えねえなー。顔色わるいぜ?」
にい、と笑って頬を撫でてくるのを弾いて歩き出す。後ろから、ぶーたれる声が上がってから、革靴にしては軽い足音が追ってくる。それから、柔らかく馴染んだトワレの香りが近づいて、不快感を感じない近さで歩調が合う。
その気配に振り向きもせず、太陽のせいだと言ってやった。まあ、嘘ではない。

本社ビルまではあとわずかな距離だが、ランチの時間の太陽は一日の内で一番苛烈で目を焼く。この清潔感あふれる街並みの白のおかげで、色素の薄い自分には世界が眩しすぎる季節だ。眼鏡には標準的なUVカットこそついているが、色が濃いわけでもないガラスは大した効果をあげてはくれない。この男を気に入っているらしい技術者に手を入れてもらおうか、と考えて、やめる。何かとんでもない機能がついてきても厄介だ。

そんなことを考えながら、空調の調った社屋に足を踏み入れた。薄く汗ばんだ体がすうと冷える。
「大体がなんにでもマヨネーズかけてれば満足なおじさんとちがって、僕は繊細なんですよ」
それでよく腹が出ませんね、燃費の悪さだけはスーパーカー並ですか、やいやいと小煩い癖に、憎らしい程距離感を図るのが上手い男に言ってやる。
案の定、だけとはなんだと噛み付いて来た男を適当にいなしながらエレベーターの上、階数表示パネルを睨んだ。本当は会話などしたくない位に身体は重い。が、間が持たない。本社に務める人間は多い。ランチタイムの後ではエレベーターも満員御礼、ほぼ各駅停車に近いそれの待ち時間の間中気にされていたら、それこそ敏い人だ、勘付かれてもおかしくはない。

ポン、と軽い音を立てて開いたドアの、わらわらと出て来た人の群を避けて乗り込む。身動きが取れないくらい混雑した吊り箱の中、前にいた女性社員はちょうど鼻先に頭が来て、彼女から放たれる香気に胃液がせり上がる。普段ならば気にもならない、朝に咲く清冽なバラの香りに混ざった女性独特の熟れきったくだもののような甘い匂い。

ああまずい、吐きそうだ。

思った途端に軽く肩を引かれて壁に近づく。遠ざかると、落ち着いて少し苦い緑の香りがして、胃液は大人しく逆流を諦めた。
「よう、相変わらず美人だな」
どうやら彼の知り合いらしい女性が振り返って微笑む。通った鼻筋が美人といえばそうか、といった程度の、たいしたことのない女。当たり障りのない話を、低い声で混み合ったエレベーターの中でいくつかした後、彼女は軽く会釈をして降りて行った。

事業部と開発部の階層を抜けると、途端に人が減る。二人きりになった箱の中、沈黙が落ちて息を吐く気配。
「おい」
静かに呼び掛ける声。
「お前ちょっと今日うち来い」
「嫌です」
「じゃあお前んち行くぞ」
「どうぞご自由に、抱き潰させて頂きます。お待ちしてますよ」
「は、今のお前にヤり殺される程、オジさんウブじゃねえけどなあ」
にい、と目を光らせて笑う年嵩の男。彼が突き付けた指がバーナビーの顎をなぞって首筋におちた。それを捕まえて唇で触れる。固く少し荒れた、無骨な手。引き寄せたところでタイムアップ、オフィスの階でドアが開く。
「続きは後でしてあげますよ」
「させねえよ!」
目の前を甘さのない香りが横切って行く。それを追うように、バーナビーは甘ったるい香りを留めた箱から抜け出した。


宣言どおり、彼は仕事を終えてそのまま我が家にやって来た。
勝手知ったる、と言わんばかりにキッチンに向かい、彼用の焼酎を勝手に取り出した適当なグラスに適当にあけて呷る。その浅黒い喉に、バーナビーが後ろから噛み付くようにキスを落とすと、大人しくされるがままになりながら変わらず酒を飲み下す。上下する喉が違う生き物のようで、唇と舌とでなぞりあげると軽く息を詰める気配。
「ここでします?」
「お前が片すんだ、どこでもいいぜ」
薄く開いた口の中、アルコールの香る舌をなめるとちう、と音を立てて吸い付いて来る唇。細い腰を抱き込んで背筋を服越しに指で伝ってみたら、絡めていた舌を甘く噛まれて尾骨が重く熱を持った。

元々光度を落としているリビングと違って、キッチンは煌々と明るい。
「先輩は寝落ちするんで、寝室で」
口付けたまま言って、離れようとした刹那、くん、と体重を掛けられてよろめく。バーナビーはフリーザーに寄りかかって事なきを得たが、そのまま上に男一人跨られれば座りこむしかない。幾ら鍛えているとはいえ、膝を伸ばしたまま肩を抑え込まれたら、立ち上がれない。戦闘経験で勝るこの男なら、尚更。
「今日は上ですかね、先輩」
それに答えず、虎徹は年若い相棒の目のしたを親指でなぞってやってから、もう片手で憎らしい程生地の良いカットソーをずりあげた。曝された肌を、温かい指がなぞっていく。
しっかりと鍛えられてなめらかに隆起する胸筋と腹筋の間、青黒く染まった鳩尾に掌が当てられる。
「やっぱりな……」
「ばれました?」
へらり、と普段の彼ならば絶対にしないだろう表情で笑うのに、ひとつため息をついてカットソーをおろしてやってから布地の上からもう一度、手を当ててみる。白い肌に汚くインク染みがたれたようなそこが、すこしでも癒えたらいいと、そう思う。
「わからいでか、顔色悪すぎんだよ……みんな気にしてたぞ」
「夏バテです」
「ほーお、お前の夏バテは喉に指突っ込んで、アザ作るまで腹殴って吐くのか?」
「……繊細なもので」
「馬鹿か」
虎徹の声は、言葉程きつくない。子供を叱る父親の声だ。そういえば別々に暮らしているとはいえ、娘がいたなとバーナビーはぼんやり思う。
「ヒーローは身体が資本だっつったのはどこのどいつだよ」
言いながら、理由を無理に聞こうとはしない態度にほっとして、肩口に頭を預けて丸くなる。いくら彼でも、言いたくはない。でもきっといつか彼になら、言ってしまう気がするが。右手を手にとって、おーおーいっちょまえに吐き傷作りやがって、とつぶやきながら甘やかすように空いたもう片手が背をあやす。気持ちがいい。柔らかい声と、少し低い体温。
「抱いていいですか」
「飯食ったらな」
もっと甘やかされたくなって、子供のようにねだる。彼の体を抱いているのは自分のはずで、ぐちゃぐちゃのどろどろになるのも日常茶飯事のはずなのに、行為の後は身体にしみわたるような満足感しか残らない。女相手の行為は快感こそあれ前後のあれやこれやが面倒で、よほど捌けた相手に押し倒されでもしない限り、バーナビーは必要だとは思えない。だが、この男相手の時にはその感覚が慕わしく、時折気が狂う程欲しくなる。だから突然に、乱暴に、時には甘く、誘う。そうして乗ってきた男の手馴れて喘ぐ様を見て、苛立つことも少なくはないのに。

なんなら食える、と立ち上がりかけた男の手を、引き戻して抱き付いて、唇と頬の境目に吸い付く。
ねえ、もっと僕のそばにいて下さい。
そう、声になるかならないかの音量でささやくと目を眇めてため息をついて、ブローして完璧に整えられた金髪をくしゃくしゃと撫でる手に甘えた。斎藤さんじゃあるまいし、はっきりしなさいよ、と言いながら、首すじをすこしだけ力を込めた指でなぞってやる。固く張って冷えた体が、少しでも柔らかに暖まればいいと願いながらさすってやると、暖かい吐息を供にして肩に顔が埋まった。

「カロリーはとってます」
口元を埋めているせいでくぐもった声が応えて、虎徹はキッチンの端をみて鼻から勢い良く息を吐いた。最高級ではないけれど、ある程度以上は確実に値の張る赤のボトルと、虎徹の父親が大事に抱え込んでいるような洋酒の瓶が無造作にまとめられて並んでいる。
「酒を飯とは言わねえよ」
若いくせにいい酒水代わりにしてんじゃねえよ、もったいない。
呟くと、今度こそ肩をおして軽快に立ってフリーザーの中身を漁る。真空パックになったハムと半分食べたきり期限の三日四日切れた卵のパック、それからしなびきったキャベツがひとかたまり。あとはトマトの缶詰と几帳面に封をされたパスタがあと1人分かそこら。
あとは製氷機のつくる氷が少々花を添える程度しか蓄えがないのに呆れていた腰に、のそりと立ち上がったバーナビーの腕が後ろから絡んでベストのボタンを器用に外して行く。
「先輩を食べた方が元気出ます」
言いながら、今度はタイに手をかける。綺麗に結われたノットに指を掛けて、勝手がわからないなりに闇雲に引いていると手が伸びてきて、充分に緩めて引く位置を教えて去って行く。掴まされた所を引くと、艶のある布が擦れる音がして黒いタイが手元に絡む。

「はいはい、いうこと聞けよバニーちゃん」
手伝った癖に、押し付けた腰から穏やかだが確かな欲は伝わっているはずなのに、虎徹はいたずらっ子をなだめるような調子を崩さない。それならば、と緑のワイシャツの裾を引き出してボタンを適当に外し、半袖一枚の自分に引き寄せる。彼の注目を一身に受けるキャベツは、フリーザーのドアで阻んでやる。
「後でちゃんと食べます、約束しますから……だからお願い」
虎徹さん。
ぎゅう、と背後から抱きしめる。足を絡めるようにしていると暖かい身体が身じろいで、ようやく体重を後ろに預けてきた彼と目が合った。
「……あんまり無茶やんなよ」
「はい」
「一回だけだからな」
「はい」
「しょうがねえな、っ」
許可が出た途端に腕の中の体をひっくり返して、噛み付くようにキスをした。さっきまでなだめられるばかりだったのを、煽って燃やすような性急で乱暴で、深いキス。
見つけた彼の弱い所をかたはしからなぞって、噛んで。
「いただきます」
耳元で囁いてそのまま舌で耳をなぞると、ようやく甘い声がこぼれた。

あなたに甘えて甘えて甘え切ったら、ちゃんと立てる気がするんです。






どうぞおあがり






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