「……キスっ、しとうござるっ……!」
「……え?」
ここは、昼休み昼食を終えた生徒達で賑わう廊下の、ど真ん中。そこで幸村は元から大きい声を張り上げて、家康にそう叫ぶ。
何事かと生徒達は皆視線を向け、先程の空気から一変して騒然とし始めた廊下がひどく居心地が悪い。しかしながら幸村の訴えにどう返すのが正解なのか、家康は全く分からなかった。
……だってそもそも、家康と幸村はキスをするような関係ではないのだから。
「えっ、と……ど、どういうこと……なんだ?真田」
「そのままの意味にござるっ!某はっ、貴殿とキスをしたくてっ」
「……待て、なんでキスなんかしたがるんだ。ワシらは恋人でもなんでもないし、その前にまず……男同士だろう」
そう家康が口にすると、幸村はくっと唇を噛んで俯いた。急に黙り込んでしまった彼を、家康はそっと覗き込む。
「……真田?」
「……お、教えて……欲しくてっ……」
「教える?何だ……キスをか?」
「そ、それもありまするがっ……その、ぁ、」
「……?」
幸村の顔がみるみるうちに赤く染って、ぐっと拳を握るとすっと家康に顔を向けた。その目は僅かに涙で潤んでいる。
「こ……恋人の、ことっ……!」
「……?恋人になったらどんなことするかとか、そういうことか?だからキスなんて強請って」
「っ……さ、左様にござる……」
……おそらく誰かが言ったことを真に受けてしまったのだろう。その誰かが小猿を連れた彼だとは容易に想像できたが。
(あぁもう、真田は純粋なんだから。あまり変なことを吹き込むなよ……)
後で慶次はきちんと咎めておこう。そう思いつつ、家康はまだ俯いたままの幸村の手をそっと取る。
「どういうこと言われたのかは知らないが……キスってもっと親密になってから出来るものだぞ。恋人って、他にも沢山したりするからな」
「あ……え、えっと……」
「ワシに教えてもらいたいんだろう?キスは流石に無理だが……そうだな、男同士でもいいなら、仮の恋人になってみるなんてどうだ」
そう言うと幸村は予想外の展開に目をぱちぱちとさせて、静かに縦にうなづいた。
取り敢えず自分にそれを頼んできたのは理由があるのだろう。純粋な幸村なら些細なことでもきっと納得してすぐに終わる。そう思って、家康はふっと幸村に微笑んだ。
……のが、およそ1ヶ月ほど前の話だ。
「家康殿っ、今日も……」
「あぁ、校門のところで待っててくれ。少し雑務があるから、それが終わったら行く」
「承知致した!」
幸村は元気の良い返事をすると、家康の元を離れて教室を出て行った。その瞬間、家康ははぁ、とため息をつく。
……決して幸村のことは嫌いではないし、むしろ友人としては好きだ。しかしながら、未だに仮の恋人というふんわりとした関係は続いている。最初こそ良かったものの、思ったよりも長期に渡っているそれに、家康は少し戸惑い気味なのだ。
今まで徳川殿と呼んでいたのを家康殿に改めて、移動の時や昼食、登下校など、なるべく居れる時は一緒に居る。今まで複数人で遊びに出かけていたのを、二人きりで出かけることの方が増えた。家で遊ぶことも増え、決まって幸村はその時にはやけに距離が近い。透き通った大きな瞳と、運動部であるのに家康よりずっと細身で華奢な身体。眠いから、と寄りかかって来た時に感じたシャンプーの香り。今までよりも親密になったこの関係と、意識などしていなかった幸村の外見の可愛らしさにどうも調子が狂う。
今まで自分はれっきとした異性愛者と思っていたのに、幸村とこの関係になってからその恋愛感情をどんどんと彼に傾けている気がするのだ。
(……でもあくまで仮の恋人であって、それで変に意識してるだけだろう。真田だって、ワシが特別に好きだから頼んだ訳では無いんだ)
恋愛というものに疎い幸村は、その踏んでいくべき段階を理解していないのだろう。だから、最初からしたりしないキスなんてものを強請ってきた。
……つまり、自分の抱く感情がもし本物だったとしても、幸村は恋愛感情を自分に抱いてくれている訳では無いのだから、叶うことはない。
何時になったらこの関係は終わりにできるのだろう。もう終わりにしようとも、本当の恋人になりたいとも、言う勇気はどちらもない。迷う心が確かにきゅう、と痛むのは、恋心の何よりの証明である。けれども家康は、それを決して認めたくはなかった。
──家康と仮の恋人生活を始めて二ヶ月が経つ。
今夜もまた眠れない。長いこと布団に潜って目を瞑ってはいるが、眠るどころかますます目が覚めていくような感覚がする。その原因が、家康のことを考えていることなのは分かっていた。
家康は未だ、せいぜい一緒にいる時間が増えたり手を繋いだりしてくれる程度で、もっと親密なスキンシップはとらないし、当然キスもしてきてくれてはいない。恋人は恋人でもあくまで仮のものである為に、触れてくれない家康に幸村の要求不満は高まるばかりで、家康ともっと親密な関係になったあとを妄想するのが日課になってしまっている。キスだってそうだし、その先のことだって。
ままごとのような生ぬるい関係で満足できるほど、幸村は純粋ではない。もっと深く、心も身体も、ひとつに溶け合いたいのに。家康は頑なにこれ以上の関係に進もうとしない。
……それならば、もういっそ。
幸村は枕元のスマホを手に取って、家康とのトーク画面を開く。不慣れだったタイピングは、毎日の家康とのトークで今はすっかり慣れていた。
「また元の友人に戻りましょうぞ」
送信。
ただ一文、淡々とした文面で届いたそれを、家康はどう思うのだろう。直ぐに既読は付いたがなかなか返信は来ない。熟考してくれているのか、あるいは──。
悪い方に思考を巡らせてしまい、視界が滲んでスマホの電源を落とすと直ぐに目を瞑った。
家康の返事が「本物の恋人になりたい」だなんて、都合のいいものとは思えない。そもそもの話、仮の恋人なんてものに付き合ってくれていた理由はおそらく、いや絶対に、その家康の性格にある。彼は行き過ぎなくらい利他的でお人好しだ。
最初からキスをしたいと無理な要望をしたのは、そんな家康にも振られるのを確信できるのはアレくらいしか思い浮かばなかったから。しかし家康はそれを「気持ち悪い」と一瞥したりせず、理由を聞かれて慌てて繕った理由を信じ、仮の恋人を提案してくれた。彼は決して幸村の想いを拒絶した訳ではないが、同時に受け入れてくれた訳でもない。いっそ振られて蹴りをつけようと思っていた幸村にとって、望んだこととは少しズレたこの関係は嬉しくて、同時に息苦しい他無かったのだ。
家康はおそらく幸村が傾けている気持ちには気づいていない。それでいて少しだけ親しく接してくれる家康の優しさは、もっと先に進みたいと願う幸村の心に少しずつ傷を残していった。
そして何より、家康の自由を奪うのが、自分であることが嫌になったから。
「っ……お慕いして、おりましたっ……徳川殿っ……」
抱き続けた恋心を、恋い慕う相手ではなく、自らで捨ててしまうことの、なんて苦しいことか。溢れてきた涙は止まることを知らず、朝が来るまで、家康のことを想いながら泣いていた。
朝目覚めてトーク画面を確認しても、家康の返事は返ってきていなかった。いつも通り、……家康とあの関係を始める前の、何でもない一日が始まる。
髪を軽く梳かして、後ろ毛を結ぶ。そういえば以前、家康がこの後ろ毛に触れて尻尾のようで可愛いと笑ってくれた。それをふと思い出して、思わず口角が緩んでしまう。
「あ……、っ、また……」
家康との仮の恋人関係は終わった。もう家康のことは好きではない。そう自分に言い聞かせて支度をする。それでも、頭の中で反芻させる自分の声の遠くから、家康の声が聞こえてくるような気がした。
玄関を出ても家康からの迎えはない。生徒会である家康は朝部活がないのに、いつも幸村が朝部活で早く家を出る時間に合わせてここに来て一緒に登校してくれていた。けれど今日になって随分久しぶりに、幸村は1人での登校だ。
朝が苦手だったのに活き活きとしていれたのは、家康が隣にいて、家康と話が出来たからだったと実感させられる。早起きした小学生や、いつも散歩をしていたり庭先の掃除をしている人は何も変わっていないのに、自分だけは昨日と違って一人ぼっち。そんな通学路が、ひどく寂しかった。
朝部活は結局、夜に降った雨でグラウンドが少しぬかるんでいたので中止とした。他の部活も中止にしたらしく、人の多い朝の教室の賑やかな会話には混じらずひとり席に座り、幸村は眠っているフリをして家康のことを考える。一度登校してきた政宗が声をかけてきたが、眠っているフリを突き通したら起こしてくることも無く無言で幸村の後ろの席に座った。その後に何かを取り出して書いているような音がし始めたので、幸村はまた家康を想って思考を巡らせる。
二年になって家康とは同じクラスになった。席が離れているとはいえ、どうしても同じ空間にはいることになる。直接話しかけられるかもしれないし、後ろに政宗がいるので彼に用があって近づいてくるのも十分ありえる話だ。本物の恋人から破局した訳では無いので家康としては何も悩んでいないのだろうが、幸村にとってはどう接すればいいのか全くわからない重大問題である。
そうこう悩んでいるとふと教室のドアが開く音がして、聞き慣れたよく通るあの声が聞こえてきた。思わず肩が跳ねそうになるのを抑えて、どうか来ないで欲しい、と心の中で祈り続ける。しかしその祈りは届かず、明らかに家康の足音が近づいてきて、政宗の席の横で止まった。
「……おはよう、独眼竜」
「Good morning,家康。……アンタマジでひでぇ顔してやがんな」
「あんまり触れないでくれよ……夜中まで付き合わせてしまったのに、お前はずいぶんピンピンしてるな」
「俺はshort sleeperなんでね。……それで?」
「……いや、まだ、何も……いっそ直接言って振られた方がいいかと思って」
「……そういうところは認めてやるぜ、家康」
聞こえてくる二人の会話の、家康の言葉が少し引っかかった。
直接言って振られた方が、と言うことは、家康にも想い人がいる──。
家康は今まで、自分との恋人なのかそうでないのかわからない関係に縛られて、誰かを想う事すらまともに出来ていなかった。そして仮の恋人関係が無くなって解放されたなら、すぐにでも行動に移したくなるのは当然だろう。
……申し訳なくて、家康を苦しめていたのが自分だと思い知らされた気分だ。
「真田は寝てるのか?」
家康の口からふと自分の名前が飛び出す。一貫して変わらない、苗字で呼ぶその声が聞きたくなかった。幸村と呼んで貰えることがないのなら、彼の声の全てに耳を塞ぎたくなる。
「さぁな。まぁ、アンタ程狸になるのは上手くねぇ」
「ふふ。流石独眼竜だ」
家康が自分の机の隣に来るのが分かって、思わず幸村はますます強く目を瞑った。家康はもう自分が起きていることに気づいている。けれどどうするのが正解なのか幸村には分からない。
「……真田。そのままでいいから、ワシの話を聞いてくれないか。……顔見ながらだと、たぶんワシも上手く言えないしな」
家康はいつもよりも低いトーンでそう幸村に話しかけた。今まで聞いたことのなかった、優しい、優しい声。
「……お前がワシをどう思ってるのか分からないが……ワシはな」
一度言葉が止まると、家康が意を決したように大きく深呼吸をしたのが聞こえた。
「……真田が……好き、みたいなんだ。友達じゃなくて、仮の恋人でもなくて……ワシはお前と、本当の恋人になりたい」
幸村はゆるゆると顔を上げ、家康を見る。彼は優しく微笑んでいて、それを見た途端に、ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。一晩中泣き腫らした上にまた泣いてしまって随分と酷い顔をしているだろうが、そんなことを気にするより先に、家康への答えを口に出したい。
「それがしもっ……家康殿とっ、恋人になりとうござるっ……!」
そう言った途端、幸村は家康の腕に包まれる。ぎゅうと強く抱きしめられて、幸村も抱きしめ返す。
触れた肌から、家康の速い鼓動が伝わってくる。きっと自分の鼓動も家康に伝わっていることだろう。それがもっと、伝わるように。幸村は強く、家康のことを抱きしめた。
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「ん……っ、甘っ……」
「美味でござろう?」
「うーん……流石に健康に悪い味してるぞこれ。あんまり食べ過ぎたら駄目だ」
「むー……」
昼休み、机に沢山のお菓子を出してふたり口にしている彼らを後ろの席から眺めていた慶次は、ふと政宗と三成に問うた。
「チョコレート口移しし合うのってどう思う?」
「バカップル」
「だよね〜みっちゃんどう思う?」
「その呼び方はやめろ前田。……同感だ」
昼休みの賑わう教室であることも周囲の視線を集めているのも気に留めず、平気でキスを、それも口移しというのはずいぶんオープンというか。成就してからというもの、家康と幸村はそんな風に二人の世界にどっぷり入り込んでいる。政宗や三成、慶次の三人のみならず、クラス中、今や学年中でも生温かな目で見守られている、が。
「……見てたらいろんな意味で胸焼けしてくる」
「薬でも飲んどけ」
見てる方が胸焼けするほどの関係は、少し抑えて欲しいものだ。