禍ノ子
 天使編 / 邦彦


 水許凪みなもとなぎは、帝国隊衛生班の班長だ。
 二十七歳という齢で、班員を束ねる器量とその人柄には誰もが一目置いており、その名を知らぬ者はいない。
 彼の取り仕切る衛生班は、戦争で負傷した兵士の看護に従事している。二号館の一角に巨大な医療施設を設けており、そこに連なる病床が主たる勤務先だ。
 もちろん凪が担当しているベッドもあるが、特別手厚い看病を受けられるという噂がまことしやかに囁かれていた。その恩恵にあずかった幸運な患者たちは、声を揃えて「ケージの天使」などと呼ぶので、凪の世話になりたいと願う隊員は後を絶たない。
 加えて、彼の華やかな容姿はその評判に拍車をかけていた。
 きめ細やかで艶っぽい白肌と、柔かな癖のあるブラウンの髪。控えめな撫子色の唇は、彼をいっそう優しく見せている。
 特筆すべきは、その長い睫毛に縁どられた瞳だ。見る角度によってグレーにも緑にも見える不思議な色をしているので、その魅力に心を奪われた者は多い。

 今夜もまた一人、凪の担当患者がベッドの上で目を覚ます――



「う、ぐあァっ……!」

 帝国隊迎撃班、賀上邦彦かがみくにひこは絶叫した。
 背中が汗でびっしょりと濡れている。繰り返す悪夢に飛び起きるのも、もう何度目かしれない。
 邦彦は、先の戦争で左足を複雑骨折する重傷を負っていた。未だベッドから下りることも出来ず、一日中うたた寝を繰り返しては、戦場の恐怖がフラッシュバックする日々を過ごしている。

 もういい加減うんざりだ。
 迎撃班に配属された途端、このような不運に見舞われるとは想像もしなかった。
 いっそ辞めたいくらいだが、逃げ出したレッテルを貼られれば、この先ずっと肩身の狭い思いをするに違いない。

「どうすればいいんだよ……もう、分かんね……、うっ……ひぐ」

 個室の病床では、邦彦の嗚咽に気づく者など一人もいない。情けなく溢れた涙を腕で拭っていると、静かな足音が聞こえてきた。
 こんな夜中に見回りなどあったのか。
 じっと耳を澄ませていると、案の定、邦彦の部屋の前で立ち止まった。

「……っ」
「入るよ、賀上」

 邦彦の担当医は、衛生班班長の水許凪だ。
 年上の男だが、その所作から品が滲む美人なので、邦彦は密かに憧れている。
 さすがに泣き顔を見られるのは気まずいので、カーテンが開く前に慌てて布団を被った。

「寝ているのにごめんね、起きられる?」
(……まじかよ)

 今夜に限って用事があるらしい。無視する訳にもいかず、邦彦は仕方なく掠れた返事をした。

「ちょっと尿瓶しびんを確認しておきたくて」
「あ……」

 尿瓶というのは寝ながら排尿が出来る透明な瓶だ。まだ立ち上がる事の出来ない邦彦に与えられているが、粗相するような感覚に体が抵抗してまだ使えないでいる。

「もしかして、それでおしっこするの難しい?」
「えっ?」

 艶めく唇からおしっこなどという単語が飛び出したことに軽く驚きつつ、慌てて頷いた。

「じゃあやっぱりカテーテルを通すことになるけれど、そのつもりでいてね」
「!?」

 焦った邦彦は、軋む上半身を慌てて起こした。
 凪の白く細い指で導尿されるなんて、想像しただけで色々と危ない。

「あ、あの、それだけはどうにかなりませんか」
「導尿なんてみんなしているから安心してよ」
「いや、でも……、やっぱり」
「今よりぐっすり眠れると思うから、ね?」
「……っ、あ」

 ベッドの隅に腰かけた凪は、唐突に邦彦の濡れた頬を撫でた。
 ふいに近づいた距離に、ドキリとする。

「一人で泣いていたの?」
「……っ!」

 真っ赤になった耳朶をするりと撫でられた邦彦は、途端に恥ずかしくなって俯いた。

「……な、凪さん、あの」
「可哀想に。僕で良かったら話して?」


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