禍ノ子
 天敵 / 椿


 カチ、コチ、カチ。

 懐中時計が刻む秒針の音が部屋に響く。
 もぞりと寝返りをうつと、椿は諦めたように溜め息をついた。
 ベッドサイドに置いた懐中時計を手にとって蓋を開ける。冷たく静かな光沢を放つ文字盤は、午前二時を示していた。

 眠れない。
 悔しくて、眠れないのだ。

 大志に容易く弾き飛ばされたあの時、もう一歩速く踏みこめていたはずだ。いつも通りの自分なら、勝負は分からなかったのに。
 あの時の自分はどうかしていたんだ。

 椿は薄いブルーのカーディガンをパジャマの上から羽織って部屋を出た。
 少しずつ和らいできてはいるが、相変わらずまだ夜は冷える。
 静かな廊下を歩き、エレベーターで三階へ降りれば、冷たい夜気に包まれた。けれど、その中にうっすらと春の香りが混じり始めている。
 丁度このくらいの季節になると、椿は昔住んでいた家の庭にあった桜を思い出した。
 蕾が一斉に膨らみ、いよいよそれが満開になると、家族で茣蓙を敷いてよく花見をした。

 三号館の中庭には一本の桜の木がある。思い出の桜と比べると若い木ではあるが、その花は満開だ。椿は嬉しくなってすぐ下のベンチに腰掛けた。

 カチコチと時を刻む懐中時計の文字盤を開く。
 銀無垢の美しいそれは、兄の形見だ。四百年以上も前のアメリカという場所で作られた時計は、兄のお気に入りだった。気が向くとたまに文字盤を開けてネジを巻き、中の歯車が動くのを椿に見せてくれた。
 十以上も年の離れた長兄の胡坐に座って、まるで計算しつくされたようにカチコチと動きまわる歯車が珍しくて、一心に見入っていたのを思い出す。
 もうあれから七年が経とうとしているのに、今も変わらずに兄の形見は時を刻んでいる。椿がネジを回し続ける限り、針が止まることはない。

「この秒針が一周したら、あっちの道をまっすぐに走って逃げなさい。そこに帝国隊がいるはずだから」

 そう言って懐中時計のネジを巻いた兄は、燃え盛る道場へ走っていった。
 中には、レギヲンに襲われて逃げ遅れた姉がいた。
 泣きながら後を追いかけようとしたけれど、兄の足に追いつけるはずもなく、椿は震えながら秒針が動くのを見つめた。
 激しい雷雨の夜だった。
 突然空から降ってきた火球の一部が道場に当たり、母も父も目の前で焼け死んだ。
 あっという間に懐中時計の針は進んでいく。それが半分を回り、やがて二周目に入っても兄は戻ってこない。
 懐中時計を握る手がぶるぶると震えている。
 椿は茂みに身を隠したまましばらく動けずにいたが、雨に濡れた頬を懸命に拭うと雷雨の道を泣きながら走った。
 兄も姉も、帰ってこなかった。
 今思えばたったの一分だ。きっと兄は自分だけ逃がしてくれたのだと思うと、椿の胸は塊を詰めたみたいに苦しくなった。

「じゃーな、また明日」
「寝坊すんなよ」
「おやすみー」

「……?」

 聞き覚えのある同級生の声がして、はっと顔を上げる。とっくに消灯時間を過ぎているのに、まだ起きている生徒がいるらしい。数名が解散したようだが、一人の足音がこちらに近づいてきた。

「あれ、早乙女椿」

 暗闇から現れたのは、ジャージ姿の大志だった。


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