罪ノ子
 宏夢 / 伊織


 寝起きに揺蕩う思考を包む、青白い早朝。
 部屋のカーテンが、薄明かりに透けている。
 扉の向こうから聞こえてくる微かな物音に、伊織は目を覚ました。
 視線だけ上げれば、宏夢の寝顔がすぐ側にある。らしくない無精髭が生えていて、痩せた頬を撫でると指先がちくちくした。
 彼の疲労が透けて見えるようで、胸の奥が締め付けられる。
 最近、夜遅くまで仕事をしているみたいだ。忙しそうにしている姿を見ると、声をかけるのも躊躇われる。最後に図鑑を読んでもらったのは、いつだっけ……。
 伊織は宏夢を起こさないようにベッドから降りると、裸足のまま寝室を出た。

「駆蹴さん?」

 嘘のように静かなリビングには誰もいない。
 代わりに、餌の入った器から顔をあげたチビが「にゃあん」と返事をした。
 辺りを見渡せば、バルコニーのカーテンがふわりと膨らんでいる。そこで手すりに背中を預けた駆蹴が、いつものように煙草を吸っていた。血の色の軍服を羽織った彼は、すぐ伊織に気がつくと優しく苦笑した。

「起きてこなくていいのに。まだ眠いんだろう?」
「ううん」

 最近はずっとこうだ。
 早すぎる駆蹴の出勤を逃したら、次はいつ会えるか分からない。

 秋が深まって、空がずっと高くなって。風に金木犀の香りが混ざった頃、突然警戒警報がなった。
 それからは、ケージ内の雰囲気が痛いほど張りつめている。
 機動班である駆蹴は、アグニスの最終調整でほとんど帰ってこない。研究が主な仕事である宏夢も、戦争の準備に駆り出され、寝る間も惜しんで作業していた。

 伊織だけ、何もすることがなかった。
 切ない孤独は、日増しに強くなっていく。

「あ、あのね、伊織、お料理頑張ってるんだよ」
「お前が? 何作ってるんだ」
「オムライスっ、卵二つ使うやつ」
「塩と砂糖間違えてないか」
「もう、平気だもんっ」

 慌てて否定すれば、「そうか」と髪を撫でられる。頬が赤くなった気がして、咄嗟にぎゅっと瞳を閉じた。
 素直に「食べに帰ってきて」と言いたいのに、恥ずかしくて言えない。前の自分ならはっきり伝えられたかもしれないけれど、今は触れるだけでも意識してしまう。それこそ、浅ましく下着が湿る程に。

「……今夜なら帰ってこられるかもしれないな」
「えっ、ほんと!?」
「ああ。ただ約束は出来ないから、あんまり遅くまで起きていないように」
「うんっ、伊織待ってる!」
「こら、ちゃんと人の話聞いてたか」
「え?」
「まったく……、ほら、寝室に戻れ。もう少し寝た方がいい」
「あ……うん、いってらっしゃい」
「行ってきます」

 もう一度伊織の髪を撫でた駆蹴は、颯爽とドアの向こうへ消えてしまった。

 あれから――車の中での出来事から、駆蹴は何も変わらない。伊織にとっては収めておけないくらい濃厚な体験だったのに、日々は淡々と過ぎていく。
 けれど「宏夢君に言わないで」と頼んだ手前、今さら蒸し返す事も出来ない。
 まるで、いけない恋をしているみたいだ。

「……はぁ」

 小さな溜め息は、一人きりの部屋に空しく散る。

 寝室に戻れば、寝返りを打ったらしい宏夢の背中がこちらに向いていた。くたびれた白いシャツの襞を見つめながら、伊織はそうっとベッドに潜り込む。
 宏夢は昨日も夜遅くまでパソコンに向かっていた。独り言をぶつぶつ言いながら作業している時は、何だか近寄りがたくて、伊織は眠ったふりをしている。

 最近、宏夢が少し変わった。
 伊織への接し方が、まるで腫れものに触るみたいになった。たぶん「八重」と呼ばれた事を追求したあの夜から。

 伊織は、広い背中にこっそりと額を押し付けた。


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