罪ノ子
 発情 / 伊織


 日の当たる明るいダイニング。白いテーブルの上には、こんがり焼けたトーストに、ベーコンが乗ったスクランブルエッグ。入れたてのコーヒーの香りが漂う、穏やかな朝だ。
 水色と白のピンストライプのパジャマを来た伊織は、大好きな桃のジャムに手を伸ばしながら恨めし気に宏夢を見上げた。
 向かいに座った彼は、コーヒー片手に新聞へ視線を落としたまま、顔も上げてくれない。

「〜〜宏夢君っ!」
「え?」
「もう八時だよ!」
「ああ、もうそんな時間か」

 ヤキモキする伊織の気も知らずに、宏夢は腕時計を確認すると、さっさと席から立ち上がってしまった。
 駆蹴の部屋へ移動した今でも、彼は変わらずに調査班の研究室へ通う日々を送っている。

「行ってくるよ」
「…………」

 返事もしない伊織に、ようやく宏夢は振り向いた。ネクタイを締め直すと、苦笑しながら頬を優しくつねってくる。

「どうした、そんな膨れっ面して」
「膨れてないもん」
「いや、ハムスターが頬袋にいっぱい詰め込んだみたいに、」
「んーっ、もう! 遅刻しちゃうよッ」
「そんなに拗ねなくても、駆蹴がいるじゃないか。今日は休みだって言ってたぞ」

 違う、別に寂しいとかそういうのじゃない。
 伊織の不機嫌の種は、別の所にある。

「いい子で待ってろよ」
「……行ってらっしゃい」

 けれど出勤前に我儘を言って困らせることもしたくないので、しぶしぶ頷く。
 伊織の頭を撫でまわした宏夢は、今度こそドアの向こうへ消えてしまった。
 
 最近、宏夢の機嫌がいい。
 たぶん他人には分からない程の変化だったが、伊織はすぐに気がついた。
 原因は駆蹴だ。
 今まで疎遠だったのが不思議なくらい彼らは親密に見えたし、何よりも宏夢は最近よく笑う。
 その嬉しそうな顔を見るたび、「伊織の宏夢君」が遠退く気がして、どうしても素直に喜べなかった。
 平たく言えば、嫉妬である。

「はあ……」

 大げさに溜息をついた伊織の足元に「にゃあん」とすり寄ったのは、この部屋の先住者である黒猫のチビだ。宏夢の出勤に気づいて起きてきたらしい。

「チビ、おはよう」

 甘えるチビを抱き上げた伊織は、濡れた鼻先にちゅっとキスをした。初めてチビを見た時は、まさか猫が駆蹴の部屋にいるなんて知らなかったので飛び上がるくらいに嬉しかった。今では二人で留守番をする事もあるので、すっかり仲良くなっている。

「お前のご主人様はまだ寝ているの?」

 駆蹴の寝室をちらりと見る。チビが通れる分だけ開いた隙間から、まだ薄暗い室内が見えた。
 昨夜遅くに訓練を終えて帰ってきたのだが、相当疲れていたらしい。部屋の入り口から浴室の方へ落ちている衣服が、彼の導線を示している。

「……洗濯しよっと」

 気を取り直した伊織は、駆蹴の抜け殻を拾い始めた。
 訓練や研究で忙しい二人の為に、伊織は自分に出来る家事を頑張ることにしている。したことのなかった洗濯も、最初こそ洗剤を入れ過ぎて失敗してしまったが、一度覚えたのでもう大丈夫だ。

「駆蹴さんって、意外とだらしないんだから……、ん?」

 目に止まったのは、無造作に脱ぎ捨てられた黒いボクサーパンツだ。
 途端にやましい気持ちが膨れ上がった伊織は、周りを確認すると、おずおずと拾い上げた。
 頭で何を考えていても、それこそどんなに嫉妬していても、相変わらず駆蹴の匂いには勝てない。
 一緒に暮らしていても慣れることがない、体が熱を帯びる程のフェロモンに、はっきり言ってノックアウトされている。
 前と比べてそこまで血が欲しいと思わないのも、やっぱり彼が傍にいるからなのだろう。

「……ごめんなさいっ」

 誰に謝っているのか、自分の良心か、育ててくれた宏夢か、このパンツの持ち主の駆蹴か――たぶんその全てに。
 重い性器を包んで伸びた布地に鼻先を埋めて、思いきり息を吸い込む。
 ああ、やっぱり堪らない。
 汗と汚れが混じる、濃厚な雄の匂い。
 駆蹴の服やベッドのシーツをこっそり嗅ぐ事もあるけれど、下着が群を抜いて一番いい。
 芯が溶けた伊織は、へなへなとしゃがみこんだ。
 これが唯一のストレス解消法なんて、絶対誰にも言えない。

「すぅ、はぁ……すぅ……ん?」

 背後に視線を感じて、はっと振り返れば、不審者を見る目でチビがこちらを見つめている。

「ち、チビ……っ、内緒だよ」

 頬を染めた伊織がパンツから顔を離したタイミングで、寝室のドアが開く音が聞こえた。


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