贖罪ノ子
蝶々結び / 駆蹴
水平線を揺らめかせる朝日を見て、駆蹴は思わず溜息をついた。
予定外の整備や緊急会議が運悪く重なり、もう三日も帰っていない。昨日こそ帰れると連絡したにも関わらず、結局夜が明けてしまった。
「早く帰りたいって顔してますね」
隣に座って同じ景色を眺めていた整備士が、スパナを工具箱に収めながら目を細めた。
「分かってるんなら、さっさと片付けてくれ」
「そんな事言わずに、煙草の一本くらい付き合って下さいよ」
「悪いな、俺は煙草やめたんだ」
「えっ!?」
大げさに驚いた整備士は、取り出しかけたタバコの箱をポケットに押し込むと、恨めしげに見上げてきた。
「……應武さんって、変わりましたよね」
「え?」
「いつの間にか子ども作って、一般居住区に家まで買って。その上煙草まで引退するなんて寂しいっす」
「悪いな」
「それに、なんか表情が柔らかくなったっていうか。たまに笑うようになったし。食堂の女子達が騒いでましたよ、應武さんの微笑で妊娠するって」
曖昧に笑った駆蹴は、ごまかすように整備士の肩を叩くと今度こそアグニス格納庫を後にした。
自然と早まる歩調を自覚しながら、二号館の部屋ではなく地下の駐車場を目指す。
愛車に乗り込みエンジンをかけると、そのまま滑らかに車体を発進させた。
伊織が子どもを産んだのは、遡ること二年前の冬になる。
正直美堂副長に取り上げられるのではないかとひやひやしたが、どうやら本当に彼の興味は伊織の生殖機能だけにあったようで、あっさりと手放してきた。
E区の郊外にある空き家を真乃に紹介されたのも丁度その頃だ。ケージの二号館で子育ては難しいと考えていた駆蹴たちはすぐに引っ越しを決断したのである。
人目を気にせず暮らせる環境に住まいを移したのは、丁度一年前の春。
戸惑う事もあるが、今の所問題もなく生活を送っている。
二つの検問をくぐり、車を走らせること二十分。街並みは一般居住区のE区へと移り、そこからさらに進めば、古びた石造りの家が姿を現す。
ここが、駆蹴たちの新居だ。
家自体はそこまで大きくはないが、庭は十分に広く陽当たりもいい。宏夢の提案で一面に芝を敷き、伊織が作った花壇には、秋に植えたチューリップやクロッカスの花がにぎやかに咲いている。
屋根まで届く見事なライラックの木は、この家のシンボルだ。春には薄紫色の花をたくさん咲かせ、駆蹴たちの寝室まで甘く澄んだ香りを届けてくれる。
未だに仕事は忙しく、毎日帰ってくる事は出来ないが、駆蹴はこの家が気に入っている。
車を停めた駆蹴は、足早に静かな庭を横切ると玄関の扉を開けた。
明るい日差しが差し込むリビングには、新聞を広げた宏夢と、二歳になったばかりの日葵が仲良く並んで座っている。
「パパ!」
顔を上げるなり駆け寄ってきた日葵を抱き上げると、そのふっくらした頬にキスをした。
天使のように愛らしい日葵。色の白さや顔立ちは伊織によく似て、大きな瞳はまるで星屑を散りばめたような黄金だ。
「ただいま。昨日はよく眠れたか?」
「おいたんと、ごほん、よんだの」
「世界の昆虫だ」
日葵からおいたんと呼ばれている宏夢は、自分が子供の頃に愛読していた図鑑をよく読み聞かせてくれている。その内容は可愛らしい動物から、複雑な人体の構造までと多岐に渡り、二歳児にはまだ早い気がするのだが、意外と日葵は喜んでいるらしい。
「うふふ、パパ、じょりじょり……う?」
徹夜で放置した顎の無精髭を嬉しそうに触っていた日葵は、なぜかしかめっ面になると、すんと首の辺りを匂った。微妙な間を置くと、小さな両手をめいっぱいに突っ張って拒否される。
「パパ、ないない」
「え?」
昨夜は結局徹夜になってしまったので、そういえばまだシャワーを浴びていない。
「おいたん、パパないない!」
嫌がる日葵に呼ばれた宏夢が、苦笑しながら新聞を畳んだ。地味にショックを受けている駆蹴に「最近匂いに敏感なんだ」と微妙なフォローが入る。
「キウイと桃のジャムが切れてるから、ボーノに行ってくるよ。あとは焼きたてのバゲットと、シナモンロールも買ってくる」
「はるくん!」
「はるくん」というのは真乃の子どもで、日葵より一歳年上のお兄さんだ。よく可愛がってくれるのだが、父としては少々ジェラシーを感じるほど仲がいい。日葵はかなり内気で人見知りなのに、なぜか晴だけは特別枠に入っていた。
「じゃあ、昼頃には戻ってくるから。伊織はまだ寝室で寝てる。明け方までお前のこと待ってたぞ、ちゃんと謝ってやれよ」
さり気無く釘を刺した宏夢は、日葵と手を繋ぐと「レッツゴー」「ごー!」と楽しそうに出かけてしまった。
「明け方まで、か……」
帰れなくなった時に連絡を入れるべきだったか。もう夜中で寝ているだろうと思っていたが、一人リビングで待つ寂しそうな伊織の顔が浮かび、やるせない気持ちになる。きっと見かねた宏夢が声を掛けてくれたのだろう。
宏夢の車が通りの向こうへ消えていくのを見送った駆蹴は、そっと寝室へ向かった。
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