思ノ子
 人体研究所 / ソラ


 お互いの体から消えた赤い痣と共に、あの日の恐怖も日々薄れていく。
 平穏な毎日は続くが、そろそろ一ヶ月が経つ頃だ。
 ずっとこの時間が続けばいいと思っていたソラの淡い期待を打ち砕いたのは、遊具室のドアを開けた瑠依と羅依だった。

「アタル、行こう」

 いつになく険しい表情をした瑠依が、恐怖に固まったアタルの髪を掴み上げる。ぶちぶちと飴色の毛が数本抜ける音が聞こえた。

「ッひ、う、うわぁあんっ、ソラぁ……っ」
「アタル!」
「お前はこっちだ」

 首の輪を後ろへ引かれたので振り返ると、羅依の無機質な瞳に見下ろされていた。
 足の先から頭まで冷水に浸かった感覚に陥る。
 また実験が行われるのだ。あの女性研究員の言っていたことは正しかったらしい。

「アタぅ、ちょうちょさんじゃないよぉーッ」
「……うるさいなあッ、少し黙れよ! 出来損ない、化け物、不用品!」

 泣き叫ぶアタルの片頬を激しくはった瑠依は、ヒステリックに怒鳴り散らす。
 その鬼気迫る姿に息を呑んだソラは、ドアの向こうへ消えた二人の姿を、ただ見ていることしか出来なかった。

 螺旋の闇に飲みこまれていく。
 暴力的な支配下に置かれた自分たちは、抵抗すら許されずにただ飼われるだけで、どうしたらいいのか分からない。

「泣くな、みっともない」

 羅依にベルトで体を固定されている間中、知らずに涙を流していたらしい。

「……死ねよ、」

 ソラの唇から溢れたのは、初めて他人の死を願う言葉だった。

「…………」
「死ね、死ね……っ、死ね!」

 何かを諦めたような羅依の視線。それも、すぐに目元をきつく縛られて見えなくなる。
 終わりを望んで薄れる意識の中、アタルを思った。

 たった一人の、大切な人。
 孤独な夜を照らす、小さな光。
 君がいなかったら、生きる意味がなくなる。
 アタル、アタル、
 お願いだ、死ぬな――



「瑠依のやつ、やりすぎたんだって?」

 汚泥に沈んだ思考を揺さぶる、研究員たちの話し声。

「基準値異常の高圧で流したってさ」
「そりゃ、アタルの心臓も止まるわけだよな」

 アタル……?

「手がつけられねーよ」

 アタルがどうしたって……?

 薄暗い病室のベッドの上で再び目を覚ます。
 しかし、以前は隣に寝かされていたアタルの姿がどこにも見当たらなかった。

 空しく誘蛾灯の底へ落ちた蛾の姿が、脳裏に蘇る。

「……っ、嘘だ」

 ソラはベッドから飛び降りた。
 じりじりと、指の先が焦げる感覚が強くなる。
 アタルの位置が何故か手にとるように分かった。
 暗い廊下の向こうを曲がった、反対側の奥にある部屋。
 不思議な確信を持って開けた扉の向こうに、やはりアタルはいた。ベッドに横たわる姿は生気を抜かれた人形のようで、腕には新しいベルトの痕が残っている。
――最近、ようやく消えたばっかりだったのに。
 アタルに駆け寄ったソラはその胸に耳を押し付けて鼓動を確認すると、人目も憚らずに泣きじゃくった。



 神様、
 俺たちは、何のために生まれたんですか?

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